「嫌い」と「ヘイト」の境界線
あなたには「嫌いな人」がいるだろうか。誰もが抱いたことのある親しみ深い「嫌い」という感情は多種多様だ。「なんとなく苦手」「生理的に無理」「孫の代まで呪いたい」......。さまざまな段階や表現が出てくるはずだ。では、私たちは毎日ヘイトをしているか、と言われれば決してそうではない。「昨日の敵は今日の友」「敵に塩を送る」「人の噂も七十五日」といったイディオムが示すように、私たちにとって、「嫌い」も「敵」も単に排他的な感情・関係ではない。それらはとてもうつろいやすく、完全な排除には至らない複雑な感情・関係である。
日本流の排除の慣習として名高い「村八分」ですら、排除の程度は「八分」にとどまり、残りの「二分」、つまり葬式と火事のときは協力し合うものであった。これは村落全体の利益のためでもあったが、同時に、「八分」にされた者たちと再びつながる可能性を残していたのだ。
「嫌い」が発生したとき、私たちはこれまでどうしてきただろう。「陰口」という言葉が示すように、特定の個人や集団に対する悪口は、会社の給湯室、 井戸端、お茶の間など当事者不在の「裏側」で、“優雅に”語られていたはずだ。ところが、インターネットという巨大な「井戸端」が登場して以来、「嫌い」は、その柔軟さやはかなさを失いつつある。人の陰口は、もはや「陰」ではなく、当事者を含む誰もが「表」で閲覧できるものになった。見知らぬ誰かを巻き込んだ悪口大会はどんどん膨れ上がり「憎悪」に変わる。そして、半恒久的にネット上にとどまり続ける。
私が恐ろしいと感じるのは、ヘイトの主張や嫌悪感情そのものではなく、「そうだ、そうだ!」と共鳴する大衆だ。なかには、「よくわからないけど、なんとなく」というその時々の雰囲気にのまれて参加している人 も少なからずいる。いつの時代も、支配的なイデオロギーや信念を形成する鍵を握るのは、この「なんとなく勢」なのである。その勢いはネット上にとどまることなく現実世界に進出し、時として誰かの心身をも危険にさらしている。今や私たちは、見知らぬ誰かが一時抱いた感情や日常のちょっとした経験を覗き見て、それに共感し、憤り、矛先を向けられた誰かの人生に関与することもできるようになってしまったのだ。
人間は「物語依存症」
前述の通り、「嫌い」という感情、そして人の悪口は、ただちに排除や差別、分断と結びつくような単純なものではない。むしろ嫌いという感情や人の悪口やゴシップ、それを伝える作法は、地域や歴史を越えて、私たちの社会生活を構成してきた。他人に対して抱いてしまう負の感情に対して、多くの社会はそれを対処・解決する装置を用意してきた。そのなかのひとつが呪術(呪い、妖術、邪術など)である。呪いをかけることも、特定の個人や集団に対する一種の攻撃であり、ヘイトである。


