2つめの気づきは、「自分の中にある傷と加害者性が求める癒し」である。親族が精神病に罹患したことに関して、自分に直接責任があるとは思っていない。ただ、割とエスタブリッシュな親族・家柄において、受験の失敗などが一つのきっかけになりプレッシャーになったこともあったのだと思う。そんな中、自分は偶然受験もうまくいき、しれっと家柄に合ったような人生を過ごしてきた。そう思うと、そんな自分の存在もまた、その親族を追い詰める一要素になったのではないか。大げさかもしれないが、「加害者性」を自分の中に感じ、とても他人事ではないように感じてしまう。
前々から、「目の前の人が無邪気に自分の夢を語り、いきいきとしている姿を見ること」自体が「自分にとっての癒し」になるな、となんとなく感じていたが、この2つの気づきによって、その想いにはしっかりと理由があることを認識した。さらには、その人の変容に少しでも貢献していると感じることが、自分の人生に意味を感じる大事な瞬間であるということもわかった。
それがわかったとき、僕はそもそも他人のためにエンパワーメントをしているんじゃなくて、むしろ自分のために他人のエンパワーメントに取り組みたいんだ、と気づいた。利己と利他が重なり合う瞬間。そう考えると、自分が取り組むべき事業が絶対に人身売買の問題である必要性はない。カンボジアでは未成年の女性が売春宿に売られるという人身売買の問題は激減してきたが、まだ全ての人が自分らしく人生を楽しむために必要な環境は整っていない。教育がより根深い問題である。いまは、目の前のカンボジアにいる人たちのエンパワーメントに関わっていきたい。そんなふうに志を語れるようになったとき、仲間たちはそれならばと新しい旅立ちを応援してくれた。
オーセンティックリーダーシップのオーセンティシティとは、自分が当事者性を感じる社会の苦しみへの真なる共感から来るものだと僕は考えている。「自分らしい自分のキャラクターにあったリーダーシップのスタイルを確立する」ことを提唱しているのがオーセンティックリーダーシップであるが、僕としてはさらに一歩踏み込んで、「社会との関わりの中での自分の痛みや願いを当事者性として大切にする」ところまでオーセンティシティだと主張したい。自分のリーダーシップをめぐる旅の果てに待っていたのは、「自分と対話し、自分の傷を癒そうとすることはとても社会的な行為であり、自己受容の先にある社会課題の解決こそが持続可能で広がりを持つリーダーシップである」という気づきであった。
もちろん、私自身が起業して最初の15年間そうであったように、「自分は何の当事者でもない、社会に対して自分の内側から来る期待も願いもそんなに持っていない」と思う人もいるかもしれない。それでもなお、全ての人が自身の半径5メートルの社会にはいろいろな願いを持っていると思う。そこから社会を見てみることで、自分と社会の繋がりを感じることはあるのではないだろうか。


