フランチャイズ拡大と分裂、ライセンス契約の軽視が生んだ亀裂
そのフランチャイズ事業は、1989年までに急拡大し、アトランタの投資家ロバート・ブルックスが経営権の過半を取得して会長に就任した。だが、ブルックスはキーファーが結んだライセンス契約の内容を気に入らず、契約の順守をやめてしまった。
1992年、急成長するフーターズ・オブ・アメリカをブルックスが率いるなか、創業者たちはキーファーに「オリジナル・フーターズを本格的に経営してほしい」と依頼した。「私は法律事務所を休職し、そのまま32年が経った」とキーファーは笑う。
キーファーが経営に加わったことは、創業者たちにとって重要な抑止力となった。というのも、ブルックス率いるフーターズ・オブ・アメリカは、フランチャイズ契約を軽視するようになっていたからだ。キーファーと創業者たちは、ブルーチーズソースのレシピが勝手に変更されたことや、ウェイトレスのユニフォームを体のラインをより強調するライクラ生地に変えようとしたことに激怒した。この対立は2件の訴訟に発展し、現在の創業者グループが修復を試みている“分裂”のきっかけとなった。
最終的に2001年、ブルックスはフーターズの知的財産権を売上の18倍の6000万ドル(約91億2000万円)で買収した。キーファー率いる「フーターズ・インク」は、フロリダ州タンパとニューヨーク、シカゴの店舗運営権を保持し、ラスベガスで「フーターズ・カジノ」を建設する権利(2006年に実現)や、人気のウイングソースを食料品店で販売する権利(現在もホットソースやシーズニングソルトとともに全米1万店舗で販売中)など、一部の権利を維持した。
一方で、自らを「世界のウイング司令官(Worldwide Wing Commander)」と称したブルックスは、2003年にフーターズ航空を立ち上げた。同社は、アトランタやサウスカロライナ州マートルビーチなど15都市に就航したが、燃料費の高騰で3年後には運航を停止し、多額の負債を抱える結果となった。彼はまた、フーターズブランドの雑誌やプロゴルフツアー、カジノ、ストックカーレース、さらにはクレジットカードといった多角展開を進め、フーターズを現在のポップカルチャーのアイコンに押し上げた。だが2006年、ブルックスは69歳で急逝し、フーターズの所有権をめぐって長い法廷闘争が始まった。
投資家たちが「フーターズ・オブ・アメリカ」の所有権を争うなかでも、同社の売上は、調査会社Technomic のデータで2009年に12億ドル(約1824億円)と過去最高を記録した。当時の店舗数は400店にのぼった。しかし2011年、所有権争いが決着し、フーターズ・オブ・アメリカはHIG CapitalとChanticleer Holdingsを含む投資家グループに売却された。その時点で売上はすでに減少傾向にあり、前年から6.5%減の10億ドル(約1520億円)強に落ち込んでいた。
オーナー交代でも業績は悪化、パンデミックが追い打ち
2019年には、フーターズ・オブ・アメリカは再び売却され、約1年間の売却交渉を経て、プライベート・エクイティのNord Bay CapitalとTriArtisan Capitalに買収された。だが新たなオーナーのもとでも業績は回復せず、同年の売上は9億8600万ドル(約1499億円)まで減少。さらにコロナ禍が追い打ちをかけ、2020年の売上は27%減の7億ドル(約1064億円)強にまで落ち込んだ。
キーファーは、「フーターズ・オブ・アメリカ」の店舗には十分な投資が行われていなかったと語る。業績不振のチェーンはその後も苦戦を続けた。投資家が経営権を握った当初、1店舗あたりの平均売上は310万ドル(約4億7000万円)だったが、パンデミックの長期化とともに200万ドル台まで落ち込んだ。
2024年、「フーターズ・オブ・アメリカ」の年間売上は6億7800万ドル(約1030億6000万円)と前年から15%減少し、フロリダ、ケンタッキー、ロードアイランド、テキサス、バージニアなどで数十店舗を閉鎖した。だが、それでも状況を立て直すには至らなかった。2025年3月に破産を申請した時点で、店舗は150店にまで減っていた。
「これは私たちの子どものような存在なんだ」とディジャナントニオは語る。「店が潰れていくのを見るのは、胸が張り裂ける思いだった。カントリークラブやスーパーで『破産するって聞いたぞ』なんて声をかけられるのも本当に辛かった。ずっとその話ばかりされていたよ。『いや、その店は私たちのものじゃないんだ』って何度も説明した」。
だからこそ、ドローストはこう言う。「チェーンを立て直す決断は確かに難しかった。でも、私たちにとっては“やらない”という選択肢のほうがもっと難しかったんだ」。


