創業の原点は、「自分たちが出入り禁止にならない店」という冗談
1980年代初頭、フロリダ州クリアウォーターで長年の友人同士だった6人の地元実業家──酒類販売業のディジャナントニオ、不動産業のドロースト、れんが職人のジョンソン、塗装業者のL.D.スチュワート、同じく塗装業の共同経営者ケン・ウィマー、そして元ガソリンスタンド経営者の“アンクル・ビリー”ことビリー・ラニエリ──の間で「自分たちが出入り禁止にならない店を作ろうじゃないか」という冗談が日常的に交わされていた。
それはあくまで冗談半分のつもりだった。ところが、彼らが登録申請していた「フーターズ(Hooters)」という会社名の法人登記が、1983年のエイプリルフールの日に正式に受理された。そのタイミングに背中を押され、当時30代前半だった彼らは、誰ひとり飲食業の経験がないにもかかわらず、本気でレストランを開くことを決意した。
「それも伝説の一部になった」と振り返るのは、当時フロリダを離れて法科大学院に通っていたキーファーだ。彼は31歳で地元に戻り、友人たちが法的な助言を求めていることを知った。
「みんなそれぞれの分野で自分の役割を果たした。それがうまく機能したんだ」とディジャナントニオは語る。「そしてニールがうまく全員をまとめてくれた。あいつがいなかったら、私たちはとっくに仲違いしてただろうね」。
1983年10月、彼らは閉店していたナイトクラブを木のパネル張りのレストランに改装し、地元のビキニコンテストから最初の「フーターズ・ガール」を採用した。そして、チキンウイングを看板メニューの1つにすることを決めた。開店から半年ほどは苦戦が続いた。初期の飲食部門を担当していたディジャナントニオは、マーケティングを担当していたドローストにこう詰め寄ったことを覚えている。「客はどこにいるんだ?」。
するとドローストは、ニワトリの着ぐるみを借りて通りの角に立ち、信号待ちのクルマの前で踊ってみせたという。
「みんなにどうせ失敗するって言われ続けていたんだ」とドローストは振り返る。「だからデニー(ジョンソン)と私は、店の前に墓石を置いたんだ。そこに、この場所で潰れた過去の店の名前を全部刻んで、“俺たちはそれでもやる!”って笑い飛ばしたんだ」。
だが、いったん客が店に足を運ぶようになると、ほとんどの客がリピーターになった。業績は上向き、開業2年目には追い風が吹いた。その年、スーパーボウルがタンパで開催され、ワシントンのスター選手が立ち寄って軽く食事をした後、チームメイトを乗せたリムジンの車列を連れて再び来店したのだ。待ち時間は最大3時間に達し、フーターズの初年度(1984年)の売上は110万ドル(約1億7000万円)に達した。
その頃、別のレストラン事業を立ち上げようとしていた開発業者のヒュー・コナーティが、昼食で立ち寄ったフーターズに魅了され、創業メンバーにライセンス契約による多店舗展開を持ちかけた。メンバーはその提案を受け入れ、外部顧問を務めていたキーファーが契約の枠組みを設計した。
キーファーは、創業者たちの「フーターズ・インク」が知的財産権を保有し、それを新設の運営会社にライセンス供与するという多層構造の契約をまとめた。さらにアトランタの投資家グループを呼び込み、フランチャイズ展開を行う「フーターズ・オブ・アメリカ」が誕生した。


