つまり、「失われた伝統を取り戻す」ためのものと位置付けられたこの展覧会は、皮肉なことに活力と自発性に欠けたものにとどまっている。それは恐らく、美術館が画家たちを招き、制作を依頼した結果でもあるのだろう。
出品された作品の多くが、学校の課題をこなした程度に終わっているのは、皮肉なことだ。それどころか、模写が持つ可能性の大きさを考えれば腹立たしいことだ。贋作師について論じた拙著「Forgers」でも述べたように、優れた模写の技術を持つ人には、多大な可能性が潜んでいる。
美学的にも、概念的にも首尾一貫した作品にするため、模写をする人はいくつかの選択肢を排除する決断を下す。それらの選択肢の中には、同様に心を惹かれたものもあったかもしれない。そして、それらの中には、その人には思いもよらなかったその他の可能性が潜んでいたかもしれない。模写をする人たちは、そうした無限にあり得た「置き換え」を探求する用意がある人たちだ。
さらに、古い時代の作品を模写する人は、それらを制作したアーティストたちがその時代に決して経験することのなかった状況と、彼らを関連づけることができる。また、そのアーティストたちの知識を超えて、元の作品に新たな芸術形態や、革新的な技術を取り入れることができる。
「廃墟と化したグランド・ギャラリー」で、ロベールは再生のプロセスを劇的に表現した。そのプロセスは現在の方が、当時以上に衝撃的なものに感じられる。当時の人たちは、ロベールが古代の大理石の像「ベルヴェデーレのアポロン」をスケッチする若い男性を作品の中に描いたことを、当然のことと捉えたと考えられるからだ。
退廃的な風景を描いたロベールの作品はいまや、古美術品のように思える。だが、それでも今も変わることなく、未来への明確なビジョンを持って描かれたものであることがわかる。


