興味深いのは、ラテン語のinspirareが聖書の翻訳で使われていた背景です。「嵐の中で吹く風(例:マタイ7:25)」や「命の息」といった文脈で、ギリシャ語の「プネイン」(πνεῖν)の訳語として用いられていました。14世紀までは文字通りの「息を吹き込む」か、宗教的な意味で使われることが多く、「思想や目的において影響を与える」という一般的な意味は14世紀後半からだと言います。
この言葉の成り立ちを知ると、私が感じてきた文化圏による違いも腑に落ちる気がします。
英語圏の人が「I feel inspired!」と言うとき、どこか主体的で、刺激やひらめきを得て「内部から力を発して動く」ような感覚があります。一方、例えばイタリア語の「Sono stato ispirato」など、ラテン語圏の人が同じような文脈で使うとき、外部の力によって「動かされてしまった」という、受動的なニュアンスを感じることが多かったのです。特に芸術やデザインの文脈では、イタリア人が作品について語るときに「何かに捉えられた」「自分の意志じゃない」という表現をよく使っていたことを思い出します。
私と同じくイギリスで芸術系の留学経験のある日本人の友人と、お互いの日々のインスピレーションについて雑談していたとき、「今あなたが話しているのはインスピレーションじゃなくてモチベーションだよね」と言われたことがあります。モチベーションは行動を起こす「動機」を指す言葉ですが、私は感覚的に「インスピレーションとは体が動かされてしまうもの」というイメージを確立していたのかもしれません。
こう考えると、人が創造的に何かを達成する過程や、行動に移す過程は本当に千差万別だなと思います。その人の成功体験にも基づくでしょうし、どんな環境でどんな人と交流してきたのかにもよります。だからこそ、「自分にとってうまくいった方法」を、そのまま他の人に当てはめて評価することはできないと、つくづく思うのです。
コンフォートゾーンに話を戻すと、人間の成長においてコンフォートゾーンをそこまでネガティブに捉えなくても良いのでは? というのが、私の意見です。むしろ、コンフォートゾーンを成功と失敗の軸に置くべきではないとも思っています。
もちろん創造的・革新的な環境の作り方は人それぞれですし、能力が試される場面、競争がある場所の方が輝く人もたくさん知っています。ですが、同じくらい「自分が居心地良く感じ、能力や決意が試されていない状況」にあってこそ、自分が最も創造的だと感じる人たちがいるのも知っています。私もその一人です。


