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2025.10.23 09:45

コンフォートゾーンは悪なのか? イノベーションとの関係を再考

廣瀬智央 /マリア・カルデラ―ラとのコラボレーション展示「VIA LACTEA SS26: Maria Calderara in dialogue with Satoshi Hirose」(写真提供=安西洋之)

そうした「カジュアル」と「軽やかさ」のあいだにある微妙な差異を考えながら、カルデラ―ラさんと廣瀬さんのつくった空間のなかにいると、ひとつのことに気がつきます。ファッションが本来的には美しく見えないとされる壁にかかり、写真が壁ではなく床にある──冒頭の表現を使えば、ファッションも写真もコンフォートゾーンをあえて踏み出しているのです。

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(写真提供=安西洋之)
(写真提供=安西洋之)

廣瀬さんのテーマである空の写真、すりガラスに挟まっている五大陸の地図、これらがすべて床に並んでいます。ローテーブルの上に置かれていわけでもなく、這いつくような状態にあるのです。「這いつく」と表現するのは、床にダイレクトに接しているのではなく、小さな卵型に削った大理石にガラスの板が支えられているからです。卵の数々は、それこそ鑑賞者が床に這いつくような姿勢をしないと見られない。ちっともコンフォートではないわけです。

壁と床を繋ぐのが、天の川をイメージした白い点が無数に描かれた長いブルーの布です。とてもゆったりとした印象を与え、ここにこそコンフォートな領域を示しています。この布の存在が、壁と床にある落ち着きのなさを、しっかりと受け止めている感があります。つまり、個々には脱コンフォートでありながら、全体を見渡すとコンフォートです。その文脈では二次元と三次元でどちらが上とかいう比較そのものが無意味に思えてきます。

(写真提供=安西洋之)
(写真提供=安西洋之)

ヨーロッパの中世後期以降の絵画にみる立体とか、日本の浮世絵にある平面とか、そういう比較を越えていると評価したいのではありません。我々が思うコンフォートゾーンと非コンフォートゾーンの根拠そのものがいかに曖昧であるかということ。ちょっと慣れ親しんだことが、即コンフォートゾーンに入ってしまう。コロリと。この現実を見つめ語ってみたいと思ったのです。

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だいたい、嫌いなことを快適には思いません。しかし、嫌いなことが好きなことに転換するのは、珍しくもありません。ぼくもイタリアという国を筆頭に、沢山の嫌いなものが好きな範疇に入りました。しかし、嫌いなことが好きになったくらいでそうそう簡単にイノベーションが生れるわけでもありません。それと同じく、自分がコンフォートであると思っていることなど、たいしたことでもない。

こうなってくると、コンフォートゾーンを抜け出すことがイノベーターをつくるとか、ラグジュアリーはコンフォートであるなど、とても心もとない話をしていることになります。つまり、冒頭の「~と言われる」など引用するに値しないフレーズなのです。

さらに書くと、衛星通信の発達した環境においては、極地に出かける冒険も「冒険のフリ」、言ってみれば「コンフォートを抜け出すフリ」のように批判されるのが現代です。こういう文脈においても、ラグジュアリーの意味が問い直されるのは必然であると思います。前澤さんの考えはいかがですか?

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文=安西洋之(前半)・前澤知美(後半)

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ポストラグジュアリー -360度の風景-

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