アジア

2025.10.20 16:30

トランプが救った「ベトナムの不動産王」、2300億円の豪華ゴルフリゾート建設へ

ドナルド・トランプ米大統領と息子のエリック・トランプ(Photo by Jeff J Mitchell/Getty Images)

海運勤務での海外経験で起業家としての視野を獲得、ベトナム戦争下の生い立ち

1964年、当時北ベトナムの一部だったハイフォンに生まれたタムは、ベトナム戦争のさなかに育った。その戦争が彼の幼少期の地理的風景を決定づけた。母は北部の出身で、父は南部の出身。家族は戦争終結の翌年である1976年、タムが12歳のときに旧サイゴン、現在のホーチミン市へ移り住んだ。18歳になると再び北部に戻り、故郷の大学で船舶工学を学び、その後ハノイで法学と経営学を修めた。

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その後、彼は国外に活路を求めた。英国で経営学を、オーストラリアで法学を学び、1988年に帰国してサイゴン・シッピング・カンパニーに海事士として入社した。この仕事で中国、日本、シンガポール、韓国、タイなどを回り、「あの数年間で国際的な視野を得た。ベトナムには世界で競争できる民間の起業家が必要だと確信した」とタムは振り返る。

1996年に合弁で工業団地を設立、自己資本1億5000万円で着手

1996年、タムは海運業を離れ、姉のダン・ティ・ホアン・イェン(66)と組み、ホーチミン市郊外に約180万平方メートルの工業団地を設立した。当時の共産主義体制下では一般的だったように、兄妹は国営企業と大手ベトナム銀行との合弁会社「タンタオ」を設立。自己資本100万ドル(約1億5000万円)を投じ、残りの1900万ドル(約28億5000万円)を売掛金担保の銀行融資で調達してプロジェクトを進めた。

タムは2002年まで姉と共に事業を進めていたが、その年に独立し、キンバック・シティを設立した。「最初の大きな成功は、キヤノンにバクニン省への投資を決断させたことだった」と彼は振り返る。ハノイの東に位置するこの省で、キンバックは2003年に最初の工業団地を建設した。「競争力のある土地価格を提示し、重要な道路インフラの整備について省政府の支援を取り付けた」。

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フォックスコンの創業者、テリー・ゴウとの出会い

次の転機は2006年に訪れた。ハノイで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の場で、テリー・ゴウと出会ったのだ。ゴウは、世界最大の電子機器受託製造企業で、世界のiPhoneの大半を生産しているフォックスコンの創業者だ。保有資産が132億ドル(約2兆円)のビリオネアでもある。

この出会いがきっかけで、翌2007年にはフォックスコンがキンバックの工業団地の入居企業となり、現在も主要顧客のひとつとなっている。「『私がベトナムに行くときは、必ずあなたが居てほしい』とゴウに頼まれたことがある。その約束は今も守っている」とタムは語る。

同じ2007年、タムはキンバックをホーチミン市証券取引所に上場させ、評価額は10億ドル(約1500億円)に達した。これにより彼の資産は約4億ドル(約600億円)となり、当時ベトナムで最も裕福な人物となった。彼は得た資金を3つの銀行とチタン採掘会社に投じ、それらを軸に2010年までに5社の上場企業を抱える巨大グループへと成長させた。2011年にはベトナムの国会にあたる全国人民代表会議に議員として選出された。

2011年の金利急騰で銀行持分を売却、債務が自己資本の188%に

しかしその後、すべてを失いかけた。事業拡大のために過剰な借入を行っていたタムは、2021年のフォーブス・ベトナムの取材で「1の資本で3を借り、4を動かす」という戦略を語っていた。だが2011年の金利の急騰が大打撃となり、2013年までに2つの上場銀行の全持ち分を売却。キンバックの債務は自己資本の188%に膨らみ、経営難に陥った。

「私は、銀行分野での失敗を経て、本業以外から撤退し、産業用不動産に集中する決断を下した」とタムは語る。

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翻訳=上田裕資

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