モロッコ人アーティスト、レイラ・イバ(Laila Hida)の空間も、体験を通じてエンパシーを醸成する。天井に布を吊り下げ、その下には抱き枕のようなクッションを配置することで、砂漠の中のテントのような空間を設置。そこに記憶を辿る16ミリフィルム映像作品を展開した。作品解説には「作品を理解することよりも、そこに身を置くことを求める」とある。
また、シャロン・ヘイズ(Sharon Hayes)は、個人やグループへのインタビューを通じて、台本のない率直な対話を記録し、人間関係やアイデンティティを形づくる、語られざる真実の断片をあらわにする。ビエンナーレではヘイズの映像作品の鑑賞スペースが随所に設けられ、「公共の対話」の価値が強調された。
ただ眺め、ただ聴き、ただそこに身を置くといったシンプルな行為としてのアート体験。それは社会の多様性を頭で理解するのではなく、ごく自然に受け入れることへとつながっていく。公共性を持つアートには、社会全体の包容力を広げ、高めていく力があるのではないだろうか。
社会インフラとしての芸術文化
ブラジルには、芸術文化を社会の中心に据え、市民のためのサービスとして展開する「SESC(セスキ)」という仕組みがある。1946年に設立されたブラジル商業連盟社会サービス(Serviço Social do Comércio)の略称で、商業・サービス業界からの社会保険融資納付金を財源とし、全国規模で運営されている総合文化センター群を指す。
サンパウロ州だけでも40拠点以上があり、ジムやプールなどのスポーツ施設、劇場、カフェテリアから歯科まで充実した設備を備え、市民は無料あるいは格安で利用できる。さらにテレビ放送や雑誌といったメディア事業まで展開する。
筆者は今回、サンパウロを代表するSESCの一つである「SESC ポンペイア」を訪問した。ここは、ブラジルで活躍したイタリア出身の建築家リナ・ボ・バルディ(Lina Bo Bardi)が設計し、工場跡地を改築・増築してできた施設だ。
館内には大型スポーツ施設やアリーナ形式の劇場、ギャラリー、陶芸や手芸などの「ものづくり」を学ぶことができるアトリエ、カフェテリア兼ライブ会場、ライブラリーやブックストアまで備わり、一度に5000人を収容できる規模を誇る。
バルディの建築デザインとパブリックアートが融合した空間は、一見、ジェントリフィケーションされた地域の商業施設だが、実際には誰もが自由に出入りできる公共の場だ。ポンペイア地区自体、観光地でも裕福な地域でもない。しかし、この施設には世界的なアーティストが集い、地域コミュニティと結びつきを育んできた。


