弁護士出身の交渉力、財閥の事業分割を主導し一族をまとめる
しかし、彼女にとって最大の試練となったのは2024年だった。5年にわたる協議を経て、ゴドレジ財閥の事業帝国が一族の2つの系統に分割されたのだ。ホルカルは自らの家系側の交渉を主導し、最終的に2つの独立した企業体を生み出す発表をまとめる中心的な役割を果たした。
分割後、ジャムシード・ゴドレジとスミタ・ゴドレジ・クリシュナが率いる一族の側には、新たに「ゴドレジ・エンタープライゼス・グループ」が誕生した。このグループにはゴドレジ・アンド・ボイスも含まれており、同社はビクロリに開発可能な405ヘクタールの土地を保有している。今後、この土地に大規模な統合型タウンシップを建設する計画だ。
もう一方の系統は、2人の資産の合計が102億ドル(約1.6兆円)に上る兄弟のアディ・ゴドレジ(83)とナディル・ゴドレジ(74)が率いる「ゴドレジ・インダストリーズ・グループ」だ。同グループには上場企業が5社あり、そのうちの1つ「ゴドレジ・コンシューマー・プロダクツ」は石けんやヘアケア製品、殺虫剤を製造しており、アディの娘ニサバ(47)が会長を務めている。また、不動産開発を手がける「ゴドレジ・プロパティーズ」は息子のピロジシャ(44)が統括している。
「私たちの間では、経営のあり方について意見の相違があったが、総じて言えば公平な結果を得られたと思っている」とホルカルは分裂の理由を説明した。事業承継に関する著書を持つ経営アドバイザーのスリーナス・スリーダランは、この合意について「各事業と一族それぞれの系統が、それぞれの目標を追求するうえで、継続性と安定性、そして自由を確保する内容になっている」と評価している。
ムンバイの法律事務所AZB & Partnersの共同創業者でマネージングパートナーを務めるジア・モディは、ホルカルが家業に入る前に同事務所で勤務していた時の上司であり、事業分割交渉にも関わった人物だ。モディは当時を振り返り、「彼女は常に冷静かつ明晰な判断を下していた」と語る。
「私が2つの選択肢を提示すると、ニリカはその結果を完全に理解したうえで、大胆な決断を下していた」とモディは言う。一方で、Interioのナガルカルによれば、ホルカルは決断力があるだけでなく、柔軟な姿勢も持ち合わせているという。「彼女は常に人の話に耳を傾け、相手の考えをきちんと聞こうとする。彼女の働き方は『参加型で協調的』だ」とナガルカルは評する。
実際、ホルカル自身も、叔父ジャムシードとの関係は良好だと話す。「私は主に消費者向け事業に重点を置いている一方で、長年の経営経験を持つ叔父は会社全体を見渡している。彼と仕事をするのは常に学びの連続だ」とホルカルは語った。
ホルカルはムンバイで育ち、名門カセドラル・アンド・ジョン・コンノン校に通い、学業だけでなく、スクールのスカッシュ、競泳、陸上チームのメンバーとしてスポーツでも優れた成績を収めた。彼女はもともと法律を学びたいと考えていたが、両親の勧めでまず米国の私立のリベラルアーツ大学コロラド・カレッジで哲学と環境経済学の学士号を取得。その後、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで法学の学士号と修士号を取得した。
ホルカルは2008年にロンドンの法律事務所White & Caseで法務キャリアをスタートさせ、翌2009年にムンバイのAZB & パートナーズに移り、M&A業務に携わった。彼女は、自分がいずれ家業に加わることを常に意識していたため、法学の知識が必ず役に立つと感じていたと話す。「契約書の確認でも、知的財産の検討でも、特許や著作権のポートフォリオの構築でも、あるいはパートナー企業との関係づくりでも、すべてに法律的な要素がある」とホルカルは語る。
子どもの頃の週末は、ムンバイ南方の海沿いの町アリバグで、親族が集まるのが常だった。母方の祖父であり、ゴドレジ・グループ共同創業者ピロジシャの息子ナヴァル・ピロジシャ・ゴドレジが別荘を構えていた場所だ。
「祖父母や両親のまわりでは、いつもビジネスの話が飛び交っていた」とホルカルは振り返る。彼女の父ヴィジャイ・クリシュナ(80)は著名な舞台俳優で、かつてゴドレジ各社の取締役も務めていた人物だ。
「家業というのは、オフィスを出たら終わるものではない」と彼女は言う。
ゴドレジ財閥の起源──独立運動期の南京錠作りから始まった
ゴドレジ財閥の起源は、インドが英国の植民地支配からの独立を目指していた1897年にさかのぼる。当時、国産品への需要が高まる中、アルデシール・ゴドレジがムンバイの小さな作業場で南京錠の製造を始め、後に弟のピロジシャが加わった。
創業から5年後、同社は史上初のインド製金庫を開発し、二重扉構造の特許を取得した。その後、1907年にはスプリングを使わない錠前の特許を取得。1918年には、ヒンディー語で「鍵」を意味するChavi(チャヴィ)という植物油を原料とした石けんを発売した。1923年には、のちに象徴的存在となるスチール製ワードローブを発表している。
1943年、ピロジシャは政府の競売を通じてムンバイ郊外に土地を取得。翌年、当時「ボンベイ港」と呼ばれていた港で爆発事故が起きた際、ゴドレジ製の金庫が損傷を免れたことで、その品質の高さが証明された。ブランドの信頼性は一層高まり、1951年のインド初の総選挙では投票箱の製造を政府から正式に委託された。
その4年後には、インド初の国産タイプライターを製造し、1950年代の終わりには国産冷蔵庫の生産にも成功した。こうしてグループは急速に事業を拡大し、化学、家具、家電、精密機械、航空宇宙、不動産開発、金融サービスなど、多角的なビジネスを展開するようになった。そして2024年、この広大な事業群は2つの一族の系統に分割された。なお、ゴドレジ・アンド・ボイスの株式の約4分の1は、創業者一族が設立した複数の慈善信託が保有している。


