キャリア・教育

2025.10.22 17:30

「何者かになりたい」から解放される「至高の瞬間」

Getty Images

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SNSにあふれる成功譚を見て、私も「何者かになりたい」という思いにかられてはいないだろうか。新著『物語化批判の哲学』が示すのは、他者の物語にとらわれず、自身の人生と向き合うための新たな思考の出発点。

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現代は物語の時代だ。例えば、就職活動では、応募者のこれまでの経験を尋ねられる。どんなことに挫折し、どんな転機があり、どうやって乗り越えたのか。嘘か真かを誰も気にもとめない。ともかく、物語的な説得力があることが求められる。

スタートアップのリーダーや成功者のインタビューを眺めると、そこには同じように、葛藤と克服の成長物語が書き連ねられている。自分には関係がないはずなのに、成功物語を読めば読むほど、自分はまだまだ努力が足りていないんじゃないか、同世代がこんなに成功しているのに、自分は何をやっていたんだろうか、これまで無駄な時間を過ごしていたんじゃないか―。自分は、彼らのような正しい物語を生きてこられなかった。そうやって後悔の念が湧いてくる。そういう人も、少なからずいるはずだ。

けれど、一呼吸おいてみよう。成功者の物語ほど怪しいものはない、と私は思うのだ。成功者が成功したのは、彼らが正しく努力したから、だけではない。彼らが社会的なコネクションや経済的な資本やタイミングに恵まれたからこそ成功できたのだ。

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しかし「努力すれば報われる」「誰だってやればできる」という物語が広まれば広まるほど、偶然成功した成功者たちはますます道徳的に尊敬され、偶然失敗したに過ぎない人たちは「自己責任」の名のもとに非難される。

確かに、成功物語に勇気づけられることもある。ロールモデルとなる人を見つけて、このように生きてみよう、と高い目標をもって頑張ることもできる。より良い明日を目指して努力すること、それは確かに素敵なことだと私も思う。けれども、覚えておいてほしい。成功物語は、必ずしも真実ではないと。

成功話は毒にもなる

語り手が都合よく見ないようにしている不都合や不平等はどんなものか。成功者が成功した才能以外のほかの要因によくよく目を凝らしてみることだ。成功話は希望を与える薬でもあるが、同時に現実を見えなくさせる毒でもある。どんな薬でも使いすぎると中毒になる。物語中毒になってしまう。

その一方で、人間は物語なしでは生きられないのではないか、という反論があるかもしれない。確かに、物語は人に希望を与えるし、指針にもなる。だが、私たちは、物語だけで生きているわけではない。

例えば私たちは、人生で時に賭けに出る。この人とずっと一緒に暮らそう、と決断する。そのとき、人生の長期的なプロットを思い描いて決めているわけではない。ただ、「この人といたい」と思う、そのときのその直感に賭けるのだ。あるいは、「この問題、どうすれば解けるだろうか」と一心に謎を解いているとき、それは過去や未来とつながる物語的な瞬間ではない。あるいは仕事終わりに友人たちと夜の街に遊びに出かけるとき、意味も目的もない、ただ楽しいだけの意味のない会話を楽しんでいる。物語なんかではない喜びがそこにある。

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文=難波優輝

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