Play(演じる)とPlay(遊ぶ)の時間
そう、私たちは、演劇的に物語を演じるだけでなく、ギャンブルのように決断し、パズルのように試行錯誤し、時に意味も目的ももたずに遊ぶ。つまり、「Play(演じる)」だけでなく、「Play(遊ぶ)」ことにも人生は満ちているのだ。だが、物語の強い引力に引き込まれると、それを忘れてしまう。
だから一度、立ち止まって考えてみてほしい。あなたが楽しかった瞬間、夢中になった時間は、どんなときだっただろうか。それは、物語には回収されないかけがえのない時間だ。
あなたは、深夜のコンビニ前で友人とどうでもいい話をして笑っていた。あなたは、親しい人と料理をしながら味見して、「ちょっとしょっぱいね」と笑い合った。あなたは、ゲームに熱中して寝るのも忘れた。あなたは、終電を逃して、しょうがなく歩いた帰り道の空気を覚えている。あなたはそういう、何者かになることとは無関係な時間を生きていた。物語なんかにはならない断片的な時間だった。 けれど、それこそが、「あなたらしい人生」のかけがえのない一部だった。
あなたらしさは遊びから
私たちは「自分らしく生きたい」と思う一方で、「何者かになりたい」とも思ってしまう。けれど、何者かになれたとしても、それが本当に自分に合っているとは限らない。筋書きのなかでうまくキャラクターを演じられれば演じられるほどに、かえって「私」が遠ざかる。
大切なのは、「私は何者か?」という問いではなく、「私は今、何をしているか?」という問いかけなのだ。あなたは遊んでいる幼い子どもに「あなたは何者ですか?」なんて聞かないだろう。あなたが尋ねるのはこうだ。「君、何をしているの?」。ステータスではなく、あなたが今何で遊んでいるかが、あなたである。
物語には力がある。希望をくれることもあるが、時に人を縛る毒になることもある。だからこそ、その物語の中毒になる前に、自分の手元にある「遊び」に目を向けてほしい。あなたの人生は、誰かの物語の再演ではなく、あなた自身の遊びから始まっていく。
なんば・ゆうき◎美学者、会社員。修士(芸術学)。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。立命館大学ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。著書に『なぜ人は 締め切りを守れないのか』(堀之内出版)など。


