型破りな採用戦略、「正しい英語」を論じるドラマーを採用
チェンが嫌気が差していたのは、「質の低いデータアノテーション(ラベル付け)」だった。彼によると、低賃金でモチベーションが低い、もしくは文化的・政治的な知識が欠けていて適切な判断を下せない人々による「使い物にならない」ラベル付けだという。
たとえば米国の選挙に不案内なアノテーターの場合、SNSに書き込まれたバイデン前大統領を罵る言葉の「Let’s go Brandon!」を、前向きなものと評価してしまうかもしれない。そのためSurge AIは、コンテキストを理解し、言語に深い知識を持つ人材の採用に踏み切った。
2021年、チェンのもとに興味深いメールが届いた。送り主は、彼が採用を試みたソフトウェアエンジニアの兄のスコット・ハイナーという人物だった。ハイナーは、テック業界での経験をほとんど持たず、10年以上にわたりインディーポップ歌手のアレック・ベンジャミンなどのツアーマネージャーやドラマーを務めていた。
だがそのメールには、作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスの有名なエッセイが添付されており、「正しい英語」を定義する権利は誰にあるのかを論じていた。チェンは興味を引かれ、同年10月にハイナーをSurge AIの5番目の社員として採用した。「チェンは徹底して型破りな思考の持ち主だ」とハイナーは語る。
採用面接の場でチェンは、応募者にホワイトボードにコードを書かせたり、問題を解かせたりするのと同じくらいの頻度で、デイヴィッド・フォスター・ウォレスの作品や言語学について語らせることもある。Surge AIの社員の約2割は、そのようなプロセスで選ばれた「型破りな経歴」の持ち主だ。「私たちは創造性を重視している」とチェンは語る。
彼はまた、ビジネスの進め方にも独自の流儀を持ち込んだ。従来型の営業やマーケティングを行わず、10年以上前に余暇で始めた人気のデータサイエンスのブログを通じて情報発信をしたのだ。最初の顧客はそこで獲得したとチェンは話すが、具体的な名前は明かさない。ただ、初期の顧客にはエアビーアンドビーやTwitch、かつて彼が勤めていたツイッターが含まれていた。彼は、テック企業のデータサイエンティストに直接売り込みを行い、彼らがSurge AIのデータのクオリティを理解すれば高額でも支払うはずだと考えた(研究者2人によれば、Surge AIが顧客に求める費用は、競合の1.5倍から10倍に達するという)。
2023年5月のある土曜の夜、グーグルの研究者が同僚の勧めでチェンに電話をかけた。当時、同社のAIモデル「Gemini」シリーズは「かなりまずい状態」にあったという。電話は2時間以上続き、その後まもなくグーグルはSurge AIと契約を結び、その規模は年間1億ドル(約147億円)を超えるまでに拡大した。
「Surge AIとの仕事では、データの “質”に対してお金を払っていると感じられるが、他社の場合は単なる人件費に思えてしまう」と、この研究者(すでにグーグルを退職しており、匿名を希望)は語った。
秘密主義の徹底、顧客はデータの優位性を正確には知らない
AIスタートアップは一般に口が堅いが、その中でもSurge AIの秘密主義は際立っている。最大の顧客ですら、同社のデータがなぜ優れているのか正確には理解していない。逆に言えば、Surge AIや競合各社も、自社のデータが最終的にGeminiやClaude、あるいはOpenAIのGPTといったモデルの訓練に使われているかどうかをほとんど把握していない。Surge AIは、参加者をどうプロジェクトに割り当て、どのようにデータを収集し、どうアノテーションしているのかも一切公開しない。顧客が数百万ドル(数億円)を支払って得られるのは、データセットへのリンクだけだ。
Surge AIはアノテーターの成果を見極めるために、隠しテストを仕掛けたり、評価の高い別のアノテーターにレビューをさせたりするだけでなく、ときにはかなり“意地悪な”動きをする機械学習アルゴリズムまで駆使しているとチェンは説明する。彼は、同社のクオリティ管理と深い技術的知見こそが「秘密のレシピ」だと強調する。
秘密主義だと指摘されることについて、チェンは「意図的ではなく、単に社外に向けて話す余裕がなかっただけだ」と説明する。さらに同社は顧客との間で秘密保持契約を結んでおり、アノテーターの採用もDataAnnotation Techという完全子会社を通じて行っている。この求人票やアノテーター向けのウェブサイトにはSurge AIの名前が出ていないため、働いている人々は背後にある会社がSurge AIだと知らない可能性もある。報酬は時給20ドル(約2940円)以上、専門的な業務では40ドル(約5880円)を超えるが、トップ人材にとってはそれほど高額とはいえない。「優秀で賢く、幅広い知識を持つ人なら、フルタイムで働けるプラットフォームにしたい」とチェンは語る。
ごくまれに、Surge AIはアノテーターを正式な社員に登用することもある。ニューヨーク大学で言語学の教授を務め、MITで博士号を取得したジュリエット・スタントンはその1人だ。スタントンは2024年4月、ちょっとした副収入のためにSurge AIの業務委託を始めたが、今ではフルタイムの社員になっている。同社が求めているのは「分析的かつ創造的に考えられる人材」だと彼女は言い、チェンがアノテーターに求めているのは、多様な言語における文化的・社会的な文脈をAIに反映させることだと付け加える。
たとえば、友人に話すときに使う言葉と上司に話すときに使う言葉は違うし、言語によっては恋愛的な文脈とそうでない文脈で異なる単語を使い分ける場合もある。こうした違いをAIに教えられるのが人間のアノテーターなのだ。


