ここでわかるのは、新宿中村屋が売り出した月餅は当初から日本人向けにローカライズしたものだったことだ。当時販売していたのは、どんな月餅だったのだろうか。
「1932年(昭和7年)頃には、餡入りと果実入りの2種類を展開していました。さらに1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)頃には、餡・果実入りと木の実入りの2種類を、小型と大型の2サイズで販売しており、価格は餡・果実入りが小10銭・大20銭、木の実入りが小15銭・大30銭でした。
その後、戦後の1965年(昭和40年)時点の中村屋の月餅は、本場中国の月餅とは大きく異なり、豚脂や豚肉を一切使わず、さまざまな果実の砂糖漬や数種類の木の実、小豆などを主原料としていました。皮には小麦粉、バター、鶏卵、砂糖を用いることで、日本人の嗜好に合わせた味わいに仕上げられていました」(新宿中村屋広報・CSR部)
商売上の理由もあっただろうが、相馬愛蔵の著書にもあるように、当時から創業者には「模倣を排す」「独創性」という考えがあったという。ローカライズの考え方についても広報担当は次のように回答している。
「中村屋の月餅は、発売から98年経ったいまもお客様からご愛顧いただいている、歴史ある商品です。商品開発の特徴として、創業者が『和菓子としての月餅』に仕立てたときのポイントは、(1)油っこさを除く (2)皮の口当たりを良くする (3)形態美をつけるというものでした。その後も、創業者の意志を受け継ぎつつ、現代人の好みに合わせ、皮と餡のくちどけの良さ、バランス、甘さの調整など改良を重ねています」
では、月餅が日本人にこれほど支持されることになったいちばんの理由は何だったのだろうか。
「月餅を発売したのは中村屋が最初ではなく、諸説ありますが、当時長崎、横浜、神戸の中華街にはすでに月餅はあったと思われます。支持された理由については、日本人の口に合うように改良したことによる日本の食文化への適応、ギフト文化との相性もあると考えています。月餅はその美味しさや風味だけでなく、贈り物としての価値や、季節の象徴として日本人に受け入れられていると思います」(新宿中村屋広報・CSR部)
これまで中国語圏の人たちが日本に持ち込んだガチ中華の味に親しんできた筆者だが、ここ数年の種々の理由による店舗の増加にともなう過当競争で、同胞を相手にしているだけでは商売が成り立たないと感じているオーナーは少なくない。すでに彼ら自身によるガチ中華のローカライズに向けたさまざまな取り組みは一部のオーナーの間で始まっている。
一方、先頃流行しているマーラータンについて書いたコラム「ブームのマーラータンにみる「ガチ中華」ローカライズの新たな可能性」で指摘したように、ブームによって味やシステムの多様化が進み、これまでにない独自な食文化として日本に定着していくという可能性を思うとき、その先例となったのが月餅だったことに、あらためて気づかされたのである。


