以下、話題書『宇宙・時間・生命はどのように始まったのか?:ホーキング「最終理論」の先にある世界』(トマス・ハートッホ 著、水谷淳 訳、NewsPicksパブリッシング刊)から一部編集の上引用する。
著者は、車いすの宇宙物理学者スティーヴン・ホーキング(2018年没)の20年来の愛弟子であり、「ホーキング最終論文」の共著者でもある天才物理学者。師からの「最後の宿題」に応えるべく、未完に終わった研究を引き継ぎ、究極のビッグ・クエスチョンに挑む━━。
ブラックホールを作れ
「ブラックホールができることを願っているよ」とスティーヴンは満面の笑みで言った。
スイス・ジュネーヴ近郊の名高いヨーロッパ原子核研究機構(CERN)で、ATLAS実験装置を収めた5階建ての地下空間から戻ってきた私たちは、エレベータを降りた。CERN機構長のロルフ・ホイヤーは決まり悪そうにもじもじした。2009年のことだった。大型ハドロン衝突型加速器(LHC)によってブラックホールか何か風変わりな物質が生成して、地球が破壊されかねないと懸念した誰かが、アメリカで訴訟を起こしていたのだ。
円形粒子加速器であるLHCの第1の目的は、素粒子物理学の標準モデルに当時欠けていた要素、「ヒッグス粒子(ヒッグスボソン)」を作り出すことだった。
スイスとフランスの国境地帯の地下を走るトンネルの中に建設された、全長27キロメートルの円形の真空チューブの中で、互いに反対方向に周回する陽子と反陽子のビームを光速の99.9999991パーセントまで加速する。その加速した粒子のビームをリング上の3か所で激しく衝突させることで、熱いビッグバンの直後、温度が1000兆度以上だったころの宇宙に匹敵する条件を再現する。そのすさまじい正面衝突で飛び散った粒子の軌跡をとらえるのは、何千万個ものセンサをレゴブロックのように積み重ねて築いた巨大検出器、ATLASや、コンパクトミュオンソレノイド(CMS)である。
くだんの訴訟はというと、「将来の損害に関する推測上の懸念は、原告適格を付与するのに十分な権利侵害には相当しない」としてまもなく却下されることとなる。爆発事故があったものの、同年11月にLHCは無事に稼働開始し、すぐさまATLASとCMSが粒子衝突の残骸の中からヒッグス粒子の痕跡を発見した。しかしいまのところLHCでブラックホールは生成していない。
だがスティーヴンは、そしておそらくホイヤーも、LHCでブラックホールが生成する可能性があるかもしれないと期待していた。それが荒唐無稽な話でなかったのはなぜだろうか?



