なぜ文化を軽視してはいけないのか。日本は明治維新以降、日本の文化を対外的な意味で産業のなかに位置づけてきませんでした。殖産興業は西洋化によって成し遂げられるものであり、日本文化は産業に邪魔なものでした。
太平洋戦争後に日本をどう再興するかという場面では、製造業が日本をけん引しました。安定した品質で大量にものをつくったり、改良してコンパクト化することに日本人の性格が向いていたこともあって非常にうまくいったのですが、その時期も文化は「フジヤマ・ゲイシャ・ハッピ・オリガミ」のように接待の道具としてしか産業のなかで居場所を与えられませんでした。その後、産業はエレクトロニクスからコンピューティングにシフト。日本は優位性を発揮できなくなり、今も苦戦を続けています。
ただ、ここにきてまた別の産業に期待が寄せられています。観光業です。霊長類学者の山極壽一さんは、文明史的に人類は定住から「遊動」の時代に入ったと指摘しました。実際、世界を遊び動くことのなかに充足を見いだす消費行動はトレンドとして表れていて、フランスやイタリア、スペインといった国は今や自国の人口より多い観光客が訪れています。
日本もこの潮流のなかにあります。観光と聞くと二流の産業だと顔をしかめる人もいますが、2030年に訪日観光客数は6000万人、インバウンド市場は15兆円と試算されています。これは数年前までの自動車の輸出額に匹敵する規模で、日本を支える産業に育ちつつあるところです。
「遊動時代」の観光産業
では、人々はどこに足を運ぶのか。世界はグローバルの時代といわれて久しく、今や人やモノ、情報は世界規模で流通して、文化も入り交じっています。ただ、均質化されたものに魅力を感じるかと言えば、そうでもない。均質化が進むほど、むしろその土地にしかない固有のローカリティの価値が輝き、人々はそこに遊動しようとします。グローバルとローカルは対義語ではなく、一対の概念としてお互いに引き立て合うイメージです。
ローカリティを形成する観光資源は、気候、風土、文化、食で、日本はそれぞれ素晴らしいポテンシャルをもっています。
特に日本の文化は西洋と異なるだけでなく、東洋でも異彩を放っています。世界では洋の東西を問わず、王や皇帝が権威を示すためにオーナメンタルな文化が発達しました。日本も室町時代までは豪華絢爛なものがもてはやされましたが、室町後期に京都で長い内戦(応仁の乱)があり、形あるものが甚大な破壊にあった。そこで一度文化のリセットが起き、「何もないほうがかっこいい」という文化が誕生したのです。例えば庭は簡素なほうが美しいし、文学では上の句だけを詠み、下の句は空白のまま渡して相手にイマジネーションを補完してもらったりします。こうした性質はほかの文化にない日本独特のものです。


