食&酒

2025.09.24 14:15

日本との意外な縁も見えてくる、歴史とグルメと温泉の町、中国・丹東の歩き方

丹東のグルメといえば、黄海でとれた海鮮三昧に尽きる

筆者は「安東老街」がオープンして以降、何度か訪れているが、いくつかの興味深い発見があった。それは、館内の一部に丹東のこの100年の歴史を時系列で解説する写真や古地図などのパネルがひそかに展示されていたことだ。

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1906年に日本人の絵師が描いた当時の安東(丹東)の絵地図。鉄道の駅も橋も建設されていない時代のことだ
1906年に日本人の絵師が描いた当時の安東(丹東)の絵地図。鉄道の駅も橋も建設されていない時代のことだ

たとえば、清朝末期の1906年の安東を描いた区画地図。清朝が安東に政府を置いたのはそれほど古くなく、1876年のことだが、そこには当然、鉄道の駅や橋は描かれていない。日露戦争(1905年)の勝利後、日本の勢力がこの地に入り始めたことから、町は発展していったことがわかる。

いわば、安東は、満鉄が置かれた大連とは違った意味で、大陸に最初に生まれた「日本人町」といってもいい。その子孫たちが、かつて筆者が書いた「<引き揚げ>世代最後の親睦会<安東会>と東京で味わう現代満洲料理」 というコラムで紹介した人たちなのだ。

鴨緑江に浮かべられた大量の木材を撮った当時の写真もある。安東は長白山系から伐採され、鴨緑江を下ってきた木材の集積地となっていたからだ。

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さらに驚くべきは、当時、満洲を牛耳っていた軍閥の総帥、張作霖と戦前の大倉財閥の創立者である大倉喜八郎のツーショット写真が展示されていることだ。これは1913年に撮られたものだが、その後、1928年に張は日本の関東軍によって爆殺されたことを思えば、この時期、両者は良好な関係であったことがうかがえる。

張作霖と大倉喜八郎の驚くべきツーショット。安東で1913年に撮影されたという
張作霖と大倉喜八郎の驚くべきツーショット。安東で1913年に撮影されたという

そして、辛亥革命(1911年)後に生まれた中華民国の時代、最も安東が栄えた頃の街並みの写真もある。「安東老街」はこの時代を再現したものだと思われる。

1930年代の安東のにぎやかな繁華街。この時代は今日の中国の知的な人たちにとって共通する郷愁の対象のようだ
1930年代の安東のにぎやかな繁華街。この時代は今日の中国の知的な人たちにとって共通する郷愁の対象のようだ

さらに、1932年(昭和7年)の満洲国建国後は、多くの日本人がこの地を訪れ、「安東遊覧案内図」なる観光マップもつくられていたのである。

満洲国建国後は多くの日本人観光客が安東を訪れたことから、このような観光絵地図もつくられた
満洲国建国後は多くの日本人観光客が安東を訪れたことから、このような観光絵地図もつくられた

このように、かつて館内の一部に点在するように置かれていた歴史パネルを見る限り、丹東の「百年老街」をめぐる歴史的な経緯が比較的まっすぐに伝えられていたことがわかる。

こうした展示は、前回紹介した、同じ丹東にある鴨緑江断橋の歴史パネルに比べ、あまりに対照的と言える。朝鮮戦争時に米軍の爆撃で落とされたというこの橋の来歴からすれば無理もない面はあるとはいえ、「百年老街」に垣間見られる「歴史認識」は、全国共通の判で押したような共産党史観だけでは語れない、地域固有の歴史があったことを、地元の人たちが自覚していることに気づかされるのだ。

もちろん、今日の中国において、そのような「認識」を表立って口にすることはあり得ない。だとしても、このように、日本との縁の深い歴史とともに、グルメと温泉という、世の旅人を誘うすべての要素が揃っている丹東に、ぜひ足を運んでほしい。

文=中村正人 写真=佐藤憲一、中村正人

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