祖母の姿も脳裏に焼きついた。当時はまだ犬や猫を診る動物病院はなく、診療の対象となるのは、牛や豚などの家畜だった。また、獣医師は男性ばかりで、軍馬の管理や衛生隊員として徴兵されていた。そんな中で祖母は病気の老犬を抱え、何とか診てくれる獣医師はいないかと、懸命に町を探し回っていた。
その時、柴内さんには、その後の人生を決めるある想いが芽生えた。
「一人でも女性の獣医師がいれば、戦争に行かず、人とともに暮らす身近な動物たちの面倒を見てもらえるのではないか」
それを自分の将来にすると決めたのは、10歳、小学4年生の時だった。
高校を3日で退学、一途に己が道を行く
戦後、社会に混乱と希望が交錯する中、柴内さんは夢の道筋を描き始めた。その頃、女性である柴内さんが獣医師となり、家庭の動物を中心に診療していくことは、道なき道を切り拓いていくことを意味していた。柴内さんは学生時代からその素地を培おうと、さまざまな行動を起こしていく。
中には、一途に己が道を突き進む柴内さんの人柄を象徴するエピソードがある。柴内さんは中学卒業後、都立高校に進学したが、入学からわずか3日後に休学を申し出た。その理由を、次のように明かす。
「幼い頃から、母の勧めで偉人伝をよく読んでいました。立派な成功を収めた人たちは皆、他人の苦労、使用人の苦労というものをよく理解されている。私もいつか親元を離れ、奉公に出るなど、他人のご飯を食べる経験をしなければならないと思っていました。けれど、このまま進学を続けると、そのタイミングを逃すことになると思ったのです」
柴内さんは苦い顔をする両親を説得し、結局、計り菓子の商家に1年間住み込みで働いた。願い出た休学は叶わず、一度退学することになったが、その後、再試験を受けて高校に戻ると、卒業後は日本大学の農獣医学部(現、生物資源科学部)に進学した。
獣医師への道を一歩踏み出した柴内さんだったが、当時、学部内で唯一の女子学生であったことから、常に注目を浴びる存在となる。またキャンパス内には、女子学生向けの設備がまるでなかった。そのため女子トイレの設置を求めて働きかけるなど、できることは何でも行いながら、環境に怯むことなく学業に励んだ。在籍中に迎えた獣医学科設立50周年の記念行事では、実行委員の一人として馬術大会の企画から広報、運営までを担ったという。
「友人に恵まれ、やりたいことをやりたいだけやった大学時代でした」

その後、柴内さんは大学に残り、家畜病院の研究員と放射線助手を経て、後に夫となる獣医師の柴内一郎氏が設営した赤坂獣医科(現・赤坂動物病院)を受け継いだ。そこで、念願の人とともに暮らす身近な動物たちの診療をスタートさせた。柴内さんが27歳の時だった。その後、娘の晶子さんが生まれたが、「医療は命を預かること。預かった以上は、目を離さずにいられる体制を維持しなくてはならない」という信念のもと、昼夜を問わず動物医療に打ち込んだ。
夜中に急患があると、柴内さんはまだ幼かった晶子さんを毛布にくるみ、近くに住む母に預け、診療に向かった。そんな晶子さんも、今では獣医師となり、同院の院長を務めている。柴内さんにとって、最良の理解者だ。


