専業主婦から知事へ、政治との出会い
転機は、46歳のときに夫が病気で亡くなったことでした。あまりにも悲しくて、「こんなに辛い思いをするなら結婚しなければよかった」と思ったこともありました。立ち直る大きな支えとなったのはやはり子どもの存在でした。
ある日、子どもが塾から持ち帰った書類に「父の名前」「父の職業」「母の名前」「母の職業」と記入欄がありました。夫が生きていた頃は3/4を埋められたのに、今は1/4しか書けない。その現実に情けなくなり、せめてもう一つの欄を埋めてやりたいと決意し、すぐに働き始めました。
派遣社員として社会復帰し、その後は山形市総合学習センターの非常勤教育相談員や県の教育委員を務めました。2008年に山形で開催された知的障害がある方々のスポーツの祭典「スペシャルオリンピックス」のボランティアにも参加しました。その活動を見ていた方から「選挙に出てみませんか」と声をかけられたのです。
最初は冗談だと思い「他の方をお探しください」と断っていました。しかし、春・夏・秋と何度も自宅に訪ねて来られ、「現職の知事に勝てないといって誰も手をあげたがらない」と言われて、真剣に考えるようになりました。
ちょうどそのころ、知人の福祉施設に勤める女性が、「何度県庁に支援をお願いしても『予算がない』の一言で断られてしまう」と疲弊した顔で話していて。「行政とは本来、福祉に力を入れるべきではないか。これでいいのだろうか」と行政への不信感を強く感じていました。
安全から抜け出すことは、危険ではなく大きなチャンス
そうはいっても、それまで私は大きな挑戦を避けて生きてきました。大学受験では担任に東大を勧められましたが、落ちるのが怖くて安全な学校を選びました。大学ではカウンセラーになる夢を諦めて就職し、結婚後は専業主婦に。気がつけば、10代・20代は「安全牌」の道ばかりを選んできたのです。
ですが、「このまま一生挑戦しないで終わるのかーー」そう思ったとき、心の底から悩みましたが、最終的に57歳で知事選に出馬することを決意しました。
まさか自分が政治家になるとは夢にも思っていませんでした。周りもそうだと思います。内気で人前で話すのは得意ではなかったのですし、集会で自分の名前を言うのも恥ずかしかったです。1期目の選挙活動では義母や親戚の伯母が心配そうに見てくれていたのを鮮明に覚えています。それが東北初の女性知事となって、現在も全国で最年長の女性知事として続けられているという未来を、誰が想像できたでしょうか。


