アート

2025.09.11 16:15

妖しく美しい血赤 天才「絵金」の屏風を土佐で見る

御用絵師の名誉を失い、流浪 町の人気絵師へ

絵金こと弘瀬金蔵(1812〜1876)は高知城下新市町(現はりまや町二丁目)に髪結の子として生を受けた。幼少期より類い稀な画才を発揮し、地元の南画家や御用絵師に学んだ後、18歳で江戸にのぼり狩野派の絵師である前村洞和に弟子入りした。通常は10年はかかると言われる修行を3年で終えるほどの秀才ぶりで、帰郷後は晴れて土佐藩家老の御用絵師の職についた。町民出身でありながら武士と同等の格式を得たというから、大出世と言っていいのだろう。

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このように順風満帆に思えた絵金の人生だったが、御用絵師となり10年ほど経った頃に人生を一変する出来事が起こる。御用絵師の職を解かれ、城下追放の処分となったのだ。その理由については諸説あり、今となっては定かではない。しかし抜き差しならない事情によって、絵金は御用絵師という名誉ある立場を失ってしまう。

当時の絵金の心情は、いかほどのものであっただろうか。失意の絵金が、10年あるいはもうしばらくの間、いったいどこで何をして暮らしていたのか確かなことは分かっていない(各地を放浪し、上方で芝居に携わり看板絵などを描いていたという説もある)。

二曲一隻屏風『播州皿屋敷 鉄山下屋敷』(手前)『競伊勢物語 春日野小芳住家』(奥)
二曲一隻屏風『播州皿屋敷 鉄山下屋敷』(手前)『競伊勢物語 春日野小芳住家』(奥)

絵金の足取りが再び歴史上に浮上するのは、今回私が訪れた土佐の赤岡に身を寄せてからである。赤岡町にはおばにあたる人物が住んでおり、絵金はこの町を活動の拠点とした。

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当時、幕末の赤岡は商都として栄えており、赤岡商人とも呼ばれる旦那衆がいた。その旦那衆が地元の神社に奉納する屏風を絵金に依頼したことで、絵金の代表的な作画形式である二曲一隻(2つ折り)の芝居絵屏風が大成したと言われている。歌舞伎や浄瑠璃、狂言といった庶民に人気の娯楽を題材にした絵金の芝居絵屏風は、町民に受け入れられ、たちまち大変な人気となった。

仮に絵金が厄介ごとを抱えずに土佐藩の御用絵師を続けていたとしたら、狩野派の一絵師として平穏な生涯を終えていたのかもしれない。

しかし絵金は思いもよらず野に下り、放浪の末に海辺の町にたどり着く。その赤岡の地で、絵金は町人の熱気と期待に応えるうちに独自の画風を確立し、その溢れる才能を見事に開花させたのである。人生とは何をきっかけとして、どう転ぶかわからないものだ。

二曲一隻屏風『競伊勢物語 春日野小芳住家』一部
二曲一隻屏風『競伊勢物語 春日野小芳住家』一部
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文・写真=長井究衡

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