憲民政党の党員であった祖父伝造の述懐を思い出す。「時代ってのは、あっという間に酷いものになる。猛暑にゆだっていても気が付くと真冬になっている」。伝造は海外雄飛を夢見て横浜の貿易会社に勤めたが、家業を継ぐため神奈川県大磯町の実家に戻された。当時の大磯は東京の奥座敷といわれて政財界の要人が密議に集まることが多く、日本で最初の海水浴場としても栄えていた。商いに不向きの祖父は、来磯する政治家の姿を見ながら、次第に政治に関心を向けるようになっていった。
伝造が貿易会社で飛び回っていたころには、大正デモクラシーの花が咲いていた。仕事帰りに山下ふ頭近くのパブで英国の友人とビリヤードを楽しみ、ダンスホールでジルバに興じた。「フランス人のマリは小柄でコケティッシュな人形みたいだった。ときめいたよ」。
女性の進出、普通選挙の実施、労働者の存在感増大、社会主義思潮の広がりのなかで享楽的文化(エロ、グロ、ナンセンス)が流行り、モガ、モボが銀座を闊歩していた。軍人の肩身は狭く、市電で通 勤する際には軍服ではなく背広姿にしたという。
企業社会は大財閥の支配の下で、社外取締役が企業社会は大財閥の支配の下で、社外取締役が経営の意思決定に重要な役回りを演じていた。ひとりで数十社の社外取を兼任する強者もいた。当時は生え抜き社員から取締役に昇格することはまれで、社外取の比重が高かった。大株主と社外取が大手を振っていた。
政治では、政党政治が出現し、政友会と民政党の二大政党を軸とする「憲政の常道」が標榜された。祖父が民政党の町会議員に当選したのはこのころだ。伝造の自慢が拘置所で酒盛りをしていたことだ。「政友会が勝つと俺たち落選した民政党候補者がぶち込まれる。だが、民政党が勝ったら逆になる。どっちが政権を取るかわからないので、獄吏たちは遠慮してな。酒や肴の差し入れもやりたい放題だったよ」。
第一次世界大戦後の国際情勢の激変とあまりに 急な日本の成長は、社会・経済に歪みを生み、関東大震災などの天災もあって農村は疲弊、都市でも格差が拡大していった。米騒動も勃発した。それでも相応の自由の下で人々の価値観は多様化した。いわゆる「無産政党」が林立して、少なからぬ若者がマルクス主義に傾倒していった。多様化社会を促進させたのが、当時の最新メディアであるラジオだった。東京からの発信を鹿児島でリアルタイムに聴けるなど、従前の社会では考えも及ばないことだったのだ。



