07年7月7日、私たちは、聖地セント・アンドリュースに降り立った。
当時はリーマンショック前で世界的に景気も良く、パブリックとはいえ聖地セント・アンドリュース、特に全英オープン開催前後のオールドコースは、the open weekといって世界中から観戦に来る人が、ついでにプレーするため予約は困難を極めた。
プレーするための確実な方法は、付設ホテルのプレー付宿泊パッケージを申し込むことだった。それ以外にも、毎朝抽選でスタート時間の取れる可能性があることも知っていたが、万全を期して2泊2ラウンドで2200ポンドのパッケージを事前予約した。
当時は1英国ポンド250円。約55万円である。人生最後かもしれないと目をつむった。
ワクワクしながら朝起きると、まるで台風のような風と横殴りの雨。心が折れそうなくらいのひどい天気だ。素敵なビュッフェからは、1番、2番ホールが見える。しかし、誰一人キャンセルせず黙々とスタートしている。われわれも雨支度をして出て行った。
初ラウンドなので3人それぞれにキャディーをつけてスタート。横殴りの雨についに手袋をするのを諦めた。それ以降、私は約8年間素手でゴルフをしている。
今年7月、セント・アンドリュースでは、最多となる29回目の全英オープンが開催される。1837年、1回目の優勝者トム・キッドの2日間の優勝スコアは91、88だ。昨年の優勝者ローリー・マキロイのスコアは68、71。道具と技術がいかに進歩したかがわかる。個人的にはキッドのスコアを下回りたいと密かに願っていた。
セント・アンドリュースのグリーンは、一般的なコースよりもかなり大きい。1つのグリーンが2つのホールで共有されているダブルグリーンとしても有名だ。実際プレーしてみると、その大きさに感銘を受けるというより圧倒された。大きなグリーンでもしっかりとした攻略法が存在し飽きることがない。
どのホールも綺羅星のごとく歴史があるが、特に11番パー3にまつわる物語は感慨深い。1921年、19歳の天才プレーヤー、ボビー・ジョーンズの初めてのセント・アンドリュース、第3日。順調に決勝ラウンドに駒を進めたジョーンズは、風の洗礼を受ける。
すっかりリズムを崩したボビーは、前半を10オーバーの46。気を取り直して臨んだ10番もダブルボギー、続く11番パー3のティーショットはバンカーに。背より高い位置にあるグリーンめがけて放った第2打は、無情にも土手に当たって戻された。結局、どうにか4オン。5打目のダブルボギーパットを外したところでボールを拾い上げて棄権した。
後に球聖と称えられることになるボビーは、このときを振り返りプレーを途中でやめるなど悪いスコアで回るより恥ずかしい、ゴルフは何が起こるかわからない。絶対途中で投げてはいけないと固く心に誓った、という。
ボビーは、1926年、ロイヤルリザムセントアンズで全英オープン初制覇。翌年、因縁のコース、セント・アンドリュースで連覇を果たした。優勝スピーチで、今回は万全の心構えで臨んだ、6年前の過ちを少しでも許してもらえるだろうか、と涙し、大観衆の拍手喝采を受けた。
ゴルフの神様の計らい
さて、難行苦行を終えた私のスコアは96。捲土重来を期して、午後、もう1ラウンドの申し込みをした。パブでビールを飲みながら待つ事4時間、あきらめかけた頃、夕方6時過ぎに2人が回れることになった。
だが、われわれは3人。ゼンキューが、自分が一番後輩だから、加茂太郎さんと私が行け、という。私もゼンキューのお祝い旅行だから加茂さんとゼンキューが行けと譲らない。結局、ジャンケンで決めることになった。
大学のサッカー部時代、後片付けの辛い仕事はジャンケンで決めていた。私があまりに強く、小泉とジャンケンしたくないとまで言わせた腕前はどこへ。ジャンケンに敗れた私は、羨望の眼差しで、しかし、残念さは表に出さずに、2人を見送った。
ゴルフの神様は粋な計らいをする。その2組後に1人欠員が出たのだ。時間は午後7時。よく、英国のリンクスには一日に四季があるといわれるが、素晴らしい天気となっていた。夏のスコットランドは、ラウンドを終えた午後10時頃でも十分明るかった。
スコアは86。2回目でトム・キッドのスコアを下回った達成感のなか、17番ホールに隣接するバーでカモメの鳴き声を聞きながら、心通う友と楽しむ夕食とビールは格別だった。
オールドコース11番ホールは、距離は長くなく、障害物もバンカーと奥のイーデン川のみだが、少しでも風が吹けば、たちまち世界一難しいショートホールに変わる。()
球聖をも翻弄した11番ショートホール
セント・アンドリュース湾にそそぐイーデン川の河口に近く、風との格闘を強いられる名物ホール。距離は172ヤードだが、風の様子によってティーショットは、ドライバーからサンドウェッジまで必要となる。
グリーン手前には深いバンカー群が待ち受け、ボビー・ジョーンズが、ここでのトラブルで生涯たった一度の棄権をしたことでも有名。