ロシア人が残したグルメも
現在、ハルビンを代表する目抜き通りの中央大街では、毎年夏に「老街音楽祭」が開催される。夕暮れ時を迎え、松花江の川風が頬を撫でる頃、かつてはロシア語でキタイスカヤ(中国街)と呼ばれていた石畳の通りは、短い夏を惜しむハルビン市民や中国各地から訪れた旅客であふれかえる。
路上コンサートも開かれる。それは、20世紀初頭に建てられたアールヌーボーやアールデコなど、西欧のあらゆる建築様式が集積することから「建築博物館」と呼ばれるハルビンという街には似つかわしい光景だ。かつてハルビンが輝いていた時代のサウンドスケープが蘇ったかのようだ。
前出の『ハルビン西洋音楽史』によると、ハルビンで最初に夏の音楽祭が開かれたのは1961年とあるが、1966年を最後にしばらく中断された。中国は文化大革命という長い政治動乱期に入り、開催どころではなくなった。
学生だった筆者が初めて訪ねた1980年代半ばのハルビンは、過去の華麗な来歴がウソのような、暗くよどんだ埃まみれの北方の都市に変わり果てていたのを思い出す。
今日のハルビンのシンボルである聖ソフィア大聖堂の大鐘は引きずり下ろされ、地べたに置かれたまま、聖堂内も物置として使われていた。かつてこの地に暮らしていたロシア人や外国人たちも姿を消していた。
実は筆者と同じことを感じていたのが、1981年に36年ぶりにハルビンを再訪した、加藤登紀子さんの父親である加藤幸四郎さんだ。彼は朝比奈隆が指揮を務めたハルビン交響楽団の設立に尽力した人物の1人でもある。そんな彼の自叙伝『風来漫歩』(櫻書房、1981年)には次のように書かれている。
<かくて『まぼろしのハルビン』はベールを脱いだが、そこにはロシア的な情緒は完全に払拭され、殺風景な中国人の街が残っているだけであった>
その後、定点観測のように何度もこの地を訪ねてきた筆者は、21世紀に入り、かつての輝きを徐々に取り戻すように、街が変貌を始めたさまを眺めてきた。2010年代になると、極東やシベリア在住のロシア人ビジネスマンや旅行者、留学生などが再びハルビンに現れるようになった。ロシア人の「先祖返り」が起きていたのだ。
考えてみれば、ハルビンは長い歴史を有する中国では、百十数年の歴史しかない地方都市だが、現在はかつて煤けていた聖ソフィア大聖堂は磨かれ、その優美な姿は市民の誇りだというし、松花江沿いに新たに生まれたハルビンオペラハウスは、かつての自画像を想起させるハルビンのシンボルともいえる。


