8月23日の夜、歌手の加藤登紀子さんは中国・黒龍江省のハルビンでコンサートを開催した。1943年生まれの加藤さんにとってハルビンは出生の地で、1981年以来の公演だという。
会場はハルビンを流れる松花江のほとりに近いハルビン音楽庁というモダンなコンサートホールで、日本からのファン約130名も含め、900人ほどの観客が集まった。
地元市民で、日本からのツアー客の現地手配を担当した新世紀国際旅行社の呼海友(フー・ハイヨウ)さんは「公演は盛況でした。なかでも加藤さんと娘のYaeさんが歌った『80億の祈り』の重唱は最高でした」と当日の模様を話す。
曠野に忽然と現れた「音楽の都」
ハルビンは、19世紀末に帝政ロシアが敷設したシベリア鉄道の要衝として建設された町で、今日では人口約900万人という大都市だが、前回のコラムで紹介した大連と同様、以前は小さな村にすぎなかった。
20世紀初頭に数千キロ離れた欧州からこの地に現れたのは、ロシアの将校や軍人、シベリア鉄道の技師、百貨店の経営や木材を扱う商人などさまざまな人たちだった。ハルビンは突如としてタマネギ型屋根のロシア正教寺院や西洋近代建築が並ぶ多国籍都市になったのだ。
1920年代に上海や天津に出現した外国人租界では、海外から逃れてきたエミグラント(移住者)たちが仮初の西欧文化を謳歌していたが、同時期、遠く離れた満洲の新開地だったハルビンでも、ロシア人やユダヤ人に加え、英仏独などの欧州各国や日本から来た人々が暮らし、可憐なモダン文化の華を咲かせていた。
<八月十五日の昼ごろ、ベートーヴェンの『運命』か何か練習していたら、特務機関から正午の放送を聞くようにという電話がありまして、ラジオを持ってこさしてかけたら、一番最初『君が代』で、「立てーッ!」つってロシア人を立たしたら、陛下のお言葉で旗色がよくないんですな>
このとぼけた述懐は、戦前戦後にかけて活躍した名指揮者である朝比奈隆の回想記『朝比奈隆 わが回想』(中央公論社、1985年)の一節である。1944年(昭和19年)5月、朝比奈隆は満洲に渡り、当時の満州国の首都であった新京(現在の吉林省長春)とハルビンで交響楽団を編成し、指揮者を務めていた。彼は日本人やロシア人、中国人から成る混成楽団員と一緒に、ハルビンで日本の終戦勅語を聴いたのである。
この回想記に記されたエピソードが何を物語るのか。日本が昭和のある時期、中国東北地方に勢力圏を置いていたという歴史はもちろんだが、ハルビンが一時期「音楽の都」と呼ばれた時代もあったということでもある。
当時、ハルビンにはロシア革命を逃れてきたユダヤ人の音楽家が留まっていた。モスクワやサンクトペテルブルグで活動していた音楽家や演奏家の姿もあった。
中国のチェロ奏者である劉欣欣の著作『ハルビン西洋音楽史』(人民音楽出版社、2002年)によると、当時のハルビンには多くの観客を収容できる劇場や音楽ホール、映画館などの文化施設が建てられ、室内楽や交響楽、オペラが盛んに上演されていたという。
特に市民が待ち望んだのが、海外から訪れる著名な音楽家たちの公演だった。音楽教育も盛んで、東清鉄道が運営するハルビン音楽専門学校やユダヤ人のバイオリニストが開校したグラズノフ音楽学校など、市内には4つの音楽学校があった。ハルビンはまさに曠野に忽然と現れた「音楽の都」だったのである。



