UNDER 30

2025.09.06 11:15

石井玄の若手時代。大切なのは「好きな想いを共有できる人」に出会うこと

玄石 代表取締役の石井玄

玄石 代表取締役の石井玄

『オードリーのオールナイトニッポン』をはじめ数々の人気番組を手掛けてきた、ラジオプロデューサーの石井玄。2024年2月の同番組のイベントで、製作総指揮として前人未到の東京ドーム公演を成功させた立役者だ。

制作会社のいちディレクターから始まり、プロデューサーを経て24年には自身の会社「玄石」を設立。そのキャリアを「スタートは本当に遅かった」と振り返る。何者にもなれなかった大学時代と、社会への劣等感。エンタメだけが拠り所だった石井は、いかにしてゲームチェンジャーとなり得たのか。

Forbes JAPAN 30 UNDER 30 2025」のアドバイザリーボードも務める石井に、「U30だった頃」を語ってもらった。


「30歳までにディレクターになる!」

大学卒業するタイミングで初めて「本当にやりたいことって何なんだろう」「人生どうしよう」と考え始めたんです。

何の目標もなく過ごした大学4年間でした。周りの同級生が出版社や新聞社を目指し必死で勉強する姿を横目に、ただただエンタメに溺れる毎日。母親がくれるお昼ご飯代の500円で文庫本を買い、週末はレンタルしたDVDを観漁る。漫画、ラジオ、映画、ゲーム漬けの日々。今思えば、その4年間はとてつもない財産です。でも当時は、目標にあふれた同級生たちに対して「これが劣等感というものか」と思っていました。授業も真面目に出ないし、サークルにも入らずバイトもせず、友達もいない。そんな僕にとって、社会との唯一の接点が深夜ラジオだったんです。

爆笑問題の太田光さんは「高校時代に友達がおらず一言も喋らずに3年間終えた」とか、伊集院光さんは「高校を中退して落語家になった」とか、ラジオパーソナリティの人たちが語る学生時代の挫折話が、僕にとってのライフラインになった。彼らだけが僕みたいな人間と1対1で繋がってくれる。ラジオに救われた人生でした。

「お笑い芸人さんのラジオ番組を作りたい」と思い、大学卒業後、1年間バイトで学費を貯めて、23歳でラジオの専門学校に入学。年下の同級生に囲まれながら、「後がない」と必死で勉強しました。専門学生の時代に始めたラジオ局のADのバイトだけは、どんなに怒られても続けられたんです。「ああ、俺はこれしかできないんだな」と。他の人が「これがやりたい」と夢を選ぶのとは違う。25歳でニッポン放送の関連制作会社であるサウンドマン(当時)に入社しましたが、「僕はこれしかできない」という切迫感しかなかったから、強かったんだと思います。

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文=堤美佳子 編集=田中友梨 撮影=山田大輔

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