新人棋士は、日本将棋連盟の機関紙「将棋世界」に感想文を寄せる習わしがある。伊藤はそこでこんな心情を吐露している。〈彼の活躍は凄まじく、こちらも意識せざるを得なかった。彼はいつ見ても勝っていて、見る度に自分が情けなく思えたが、早く上がらなければ、と刺激になった〉。藤井聡太の名指しこそしていないが、「彼」が誰かは一目瞭然。〈いまは大分離されているが、いつか大きい舞台で対戦してみたいと思う〉。そんな率直な思いもつづった。
藤井独占時代に風穴 「叡王」奪取の衝撃
プロ入り後の伊藤の活躍は目覚ましい。2021年度は若手の登竜門の新人王戦で優勝し、藤井を抑えて年間勝率1位も記録した。23年には早くも棋王戦、叡王戦、竜王戦でタイトルへの挑戦権を獲得。瞬く間に藤井と戦える土俵まで駆け上がった。
そして昨年の叡王戦五番勝負でフルセットの末、当時全冠を独占していた藤井から叡王位をもぎ取った。絶対王者の藤井聡太でも失冠することがある―将棋界に与えたインパクトは大きかった。
膨大な研究量に裏打ちされた序盤の精度。詰め将棋の天才と言われる藤井にも引けを取らない終盤力。攻めと受けの絶妙なバランス。新手発見への飽くなき意欲。研ぎ澄まされた棋風の伊藤は、今や藤井に対抗できる唯一の若手として将棋界を盛り上げている。
同世代に圧倒的な強者がいるのは、その他の棋士にとって不運に思える。しかし伊藤の受け止めは全く違う。
「藤井さんがいてよかった。そのおかげで周りのレベルも上がった。これからも定期的に大きな舞台で対戦できる関係でいたい」
色紙には「孤高」の言葉を好んで揮毫する。「自分の信念を貫いて高みを目指すという思いを込めて」。媚びない姿勢は、勝負師の誇りと強烈な向上心の表れだろう。
伊藤は藤井への対抗心を隠さない。藤井が初優勝した朝日杯で奨励会員として記録係を務めた際、「負けてほしい」と願ったことを明かしている。でも、「一生目標にし続ける」という宿敵に向けた視線は、リスペクトにも満ちている。「藤井さんは発言一つをとっても周囲への配慮が行き届いていて、隙がない。自分ももうちょっと受け答えなどをしっかりしないといけないと感じます」
孤高の信念で挑む王座戦
実は伊藤は、他者とのコミュニケーションが苦手なのだという。常に自然体で柔和な笑みをたたえる藤井と、どこか硬質の空気をまとった伊藤。2人のキャラクターは対照的に見える。それでも、盤上に求めるものは同じだ。
「生きていて常に将棋のことを考えている。非常に際どくて険しい道でも、それが最短の勝ち筋であれば目指したい」
そんな両雄が激突する王座戦5番勝負は、9月4日にシンガポールで開幕する。伊藤はその特別な舞台で、将棋の魅力を世界にアピールしたいと思っている。
いとう・たくみ●2002年、東京都生まれ。5歳で将棋をはじめ、20年に当時の現役最年少棋士として17歳でプロ入り。21年に新人王戦で優勝し、同年度の新人賞、勝率一位賞を受賞。24年には叡王戦で藤井聡太叡王に挑戦し、タイトルを獲得。得意戦法は相掛かり。



