だが困ったことに、人が自分をどう思っているのかは、本当のところはわからない。
それは想像するしかないから、想像に合わせて自分を絶えず変えていくことになる。
「私は自分が思っているような人間ではないし、あなたが思っているような人間でもない。私はあなたにこうだと思われていると思っている人間なのだ」というクーリーの名言が、これをよく表している。
私たちが「自分らしくない」と感じることが多いのも、このせいだ。
私たちは、会議室にいるか、ベッドルームや競技場にいるか、どの集団に属しているかなどによって行動を変え、そのことに違和感を覚える。
それぞれの関係性の中で一貫した行動を取ることは、自分という人間の整合性を図る上で望ましいが、どの集団にいてもつねに同じ行動を取れば、場違いになる。
たとえば、恋人とは戯れ合っても、同僚とは仕事上の関係を保たなくてはならない。不安や弱みを見せることは、心理療法では適切でも、就職面接では不適切だ。
そんなわけで、状況に応じて行動を変え、そのせいで自分が別人になったような気がすることがある。
そんな時には、アイデンティティ(自分らしさ)を失ったように感じる。
私たちの自伝は他者によって書かれる
昨今の「アイデンティティ政治」〔ジェンダーや人種など、自分が帰属意識を感じる集団の利益を代弁して行う政治〕をめぐる議論には、「自分は自分をどう見ているのか」と「社会は自分をどう見ているのか」のせめぎ合いが表れている。
またその一方で、「本当の自分」になる機会がないと感じることもある。
私たちは不幸せになると、まずい決定や選択をし、失敗したといって、自分を責める。そうした失敗の責任を自分に負わせる。
だが、生まれ育つ環境は自分で選べないし、自分に影響を与える経験を自分でコントロールすることもできない。私たちの自伝は、他者というゴーストライターによって書かれるのだ。
自分という人間が、自分ではコントロールできないものを含む、多くの要因によって形成されることを受け入れれば、そうした重荷を肩から下ろすことができる。
これこそが、「自己中心性を抑え、より他者中心的になる」ということなのだ。
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