高い質を確保し、維持する環境の条件。難しい問いかけだなと悩むなか、1番に頭によぎったエピソードがありました。
それは私がイギリスの大学院に留学していた頃のこと。下宿先近くのスーパーに併設された飲食スペースで修士論文を書いていると、そのタイトルをちらりと見た老人が興味を持って話しかけてきたことがありました。
当時住んでいたのは、移民や労働者階級の家庭が多いエリア。失礼ながらも、この地域の老人が学術的な話題に興味があり、しかもアジア人留学生に話しかけるほど気さくだとは思ってもいませんでした。驚いて、しどろもどろな説明になり、内容の半分も伝わったのかどうかわかりませんが、「論文頑張ってね」と言って去っていく彼の姿を見ながら、なんだか嬉しいような悔しいような、とても温かい気持ちになったのを今でも強く覚えています。
有名な人や大切な人との交流以外にも、無名の人との刹那の交流が、深く自分の世界を広げてくれることがあります。自分が見えていなかった層と繋がり、目の前の風景が脱中心的に広がっていく不思議な感覚。おそらく、ランゲの研修で廣瀬さんが得た感覚と近いのではと勝手に想像しています。
高い質とはなんなのか。私は、質を作る人と受け取る人の双方が「自分が高まる」と感じられるもの、「より良く生きよう」と高めあう、良い循環を生むものではないかと思っています。そして、その高まりは想定内だけでは生まれません。思いがけない出会いや予想を超える接触が欠かせないはずです。
しかし現代社会では、それがどんどん難しくなっています。
総合雑誌「Voice」6月号の論考「考察したい若者たち 最終回 ググるからジピるへ」で文芸評論家の三宅香帆さんは、Google検索からAIによる検索への移行を踏まえて、情報環境が「ウェブ(網)からコクーン(繭)へ変化している」と表現しています。
世界中の多様な解釈にアクセスできるようになった一方で、情報信頼性の見極めは個人の責任になりました。異なる視点に触れて時間を取られるリスクを追うよりは、AIによって提示される「最適解」に頼りたくなる。この傾向が加速した結果、人々を文化的に閉じた「情報の繭」に囲い込み、偶然や異質なものとの交流の機会が失われている、と彼女は指摘します。
そんな状況下に見知らぬ人や異なる人々との交流を支える環境の条件とは、果たしてなんなのでしょうか。


