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2015.09.08 08:00

日本の「忘れ去られた英雄」 フラッシュメモリを開発した男、舛岡富士雄

フォーブス ジャパン2015年7月号より

フォーブス ジャパン2015年7月号より

「2014年末から、3次元フラッシュメモリはようやく実用化され始めました。今(2015年)から13年前に、フォーブス誌がこれを取り上げたことは、とても画期的なことだったと思います」
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現在、72歳になる舛岡富士雄は半導体技術の研究開発を行うセミコン・コンサルティング社の最高技術責任者として仙台と東京を拠点に3次元デバイスのさらなる進化への研究開発を行っている。

14年末にサムスン電子、15年に入ってからは東芝とサンディスクの企業連合、インテルとマイクロン・テクノロジの企業連合など、世界の大手半導体企業がこぞって3次元フラッシュメモリの商業生産開始の発表を行った。これからは複数の企業による本格的な量産競争へ入る。

02年Forbes Global誌に取り上げられた当時、舛岡は東芝を退社し、自らの研究開発が社会や事業に生かされないはがゆさを感じていた。
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記事が掲載されると、国外での反響は大きく、数々の資金援助や引き抜きの話があった。しかし舛岡は「日本発」の技術であることにこだわった。英語でのコミュニケーションに困難を感じながらも、自らの開発した新しい技術について、米国での特許申請を行っている。また現在の舛岡の活動を支えるのも海外の資金だ。

「私が東芝時代に開発し、その後サムスンやインテルが取り入れたNAND型フラッシュメモリは、NOR型に比べて回路規模が小さく、安価に大容量化できます。日本の技術者の多くは『安価に作る』ということの重要性を理解することが難しいように思います。そして経営トップもまた、半導体に関しては正確に評価、判断できる人がいないのです。

私は02年にたまたまフォーブス誌で取り上げられ、運がよかったですが、日本にはまだまだその努力に反して日の目を見ない企業内技術者が数多くいると思います。海外の助けを借りずとも、彼らが正当に評価される時代が来てほしいですね」

▼以下、2002年のインタビュー


シリコンバレーのコンピュータ歴史博物館でも日本発の技術として初めて殿堂入りした、世界的ヒーローの成した偉業は、なぜ、日本であまり知られていないのだろうか。

2001年、フラッシュメモリの市場規模は、760億ドル(9兆1,200億円)に達した。自動車やコンピュータ、携帯電話など総額3兆ドル(360兆円)以上の商品にフラッシュメモリが組み込まれた。半導体分野に新風を巻き起こした、そのフラッシュメモリの生みの親が、舛岡富士雄である。

フラッシュメモリは、1980年代の半導体分野における最も重要な技術革新だ。その発明者である舛岡は、巨万の富を得ているはずだと思うかもしれない。しかし、現在59歳(編集部注・2002年現在)になる舛岡が暮らすのは、その常識が通用しない、日本なのだ。

フラッシュメモリを発明した舛岡に対して、雇用主である東芝が支払った報奨金はわずか「数百ドル(数万円)」である。フラッシュメモリ市場は、すぐにライバルであるインテルに奪われた。さらに東芝はその後、舛岡を研究の続けられないポストに左遷しようと、何度も試みた。

しかし、東芝はこれを否定している。広報担当者は本誌に対し、フラッシュメモリを発明したのはインテルであると、繰り返し主張した。一方インテルは東芝がフラッシュメモリを発明したと主張しているのだ。

97年、ニューヨークの米国電気電子学会(IEEE)は東芝在籍中のフラッシュメモリ発明の業績をたたえ、舛岡にモーリス・N・リーブマン賞を贈与している。そこで、東芝にこの点を改めて問いただすと、フラッシュメモリを発明したのは東芝であることを認めたうえで、東芝は先行利益を守りきれなかったと語った。

この舛岡富士雄を巡る物語から浮かび上がるのは、既存の製品の応用を重視するあまり、基礎研究を怠り、米国との半導体戦争に敗れた日本の姿である。

日本で業績を正しく評価されないことに不満に感じている研究者は、舛岡だけに留まらない。青色LEDを発明した中村修二は、01年、特許の帰属を巡り、勤務していた日亜化学工業を相手に訴訟を起こした。そして、中村は現在、米国で暮らしている。
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前半インタビュー=岩坪文子 02年取材文=ベンジャミン・フルフォード 翻訳=松永宏昭

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