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舛岡は東北大学で博士号を取得し、71年に東芝に入社。その僅か4カ月後、SAMOSと呼ばれるタイプのメモリを発明。さらに、入社5年で、別のタイプのメモリ開発にも成功した舛岡は、その後、半導体製造部門に異動となり、そこで、1メガビットのDRAMを開発した。

しかし、彼が情熱を注ぎ込んだのは、電光石火(フラッシュ)のようにひらめいた自らのアイデアであった。

84年、サンノゼで開催された国際電子デバイス会議(IEDM)で、舛岡が自ら開発したフラッシュメモリを発表すると、米国の半導体業界に衝撃が走った。

舛岡の上役たちの見込みに反し、この会議の終了後、東芝には、インテルなど、米国のコンピュータ関連会社や自動車メーカーなどから、サンプルに関する問い合わせが殺到。インテルはすぐさま300名のエンジニアをフラッシュメモリの開発に専従させた。

一方、東芝は「非専従のスタッフ5名を配置してくれました」と舛岡は語る。舛岡のグループは、他社に先駆けて、フラッシュメモリを市場に投入したが(自動車用途)、インテルはすぐに巻き返し、この市場を制した。

93年に刊行されたインテル25周年記念社史では、これが米国の発明を日本が優れた製品に仕立て上げる一般的なパターンを逆転させた事例であると自画自賛している。そして、フラッシュメモリは現在も、インテルの稼ぎ頭の1つである。

しかし、舛岡は、フラッシュメモリの開発を諦めたわけではなかった。86年、東芝とテキサス・インスツルメンツの間で争われた特許訴訟の証人として、この年の半分を米国で過ごした舛岡は、証言を待つ間に、新型フラッシュメモリの開発をスタートさせ、その後も空いた時間を使って開発を続け、特許を申請できる状態まで漕ぎ着けることができた。

それがNAND型フラッシュメモリである。舛岡は、このメモリがコンピュータのハードディスクドライブ(HDD)に代わる存在になると期待した。NAND型メモリは、NOR型よりも速度は遅いものの、コンパクトで低価格である。NOR型メモリは、コンピュータの中央演算処理装置(CPU)と直接接続され、基本出入力システム(BIOS)が格納されるため、超高速であることが求められる。

一方、NAND型は、NOR型の2倍以上の情報を格納できるが、フロッピーディスクやHDDと同じような用途で利用する場合、速度は遅くなる。舛岡は、両者の違いを、8階建てのマンションと平屋の一戸建てに例えている。一戸建ては、はるかに短い時間で建物から退出可能だが、同じ面積に建設できる住宅の数は少ない。

舛岡の狙いは、コンピュータに搭載される年間500億ドル(6兆円)規模のHDD市場に取って代わることにあった。フラッシュメモリには、数多くの優位性がある。機械的な可動部がなく、使用電力はHDDの100分の1以下であり、大幅な小型化が可能である。

そして、舛岡が予見した通り、最大の弱点である価格の高さは、時間が経つにつれて、克服されていった。現在、携帯電話用を含め、32ギガバイト以下のメモリでは、HDDよりもフラッシュメモリの方が安価である。

舛岡には、米国企業からスカウトの話もあったが、「当時、日本では、会社を辞めるという選択肢が一般的ではありませんでした」と語る。ところが、新型メモリを市場に投入した90年、当時47歳で円熟期に入っていた舛岡に対して、東芝は部下のいないポストへの「昇進」を受けるよう迫り始めた。

「会社から『お前はもう必要ない』と言われたということです。昇進とは名ばかりの、部下も同僚もいないポストに私を追いやろうとしました。エンジニアにとって、それは死を意味します。当然、私は納得がいかず、自分の上司を飛び越して、その上に不満をぶつけ、3年間、抵抗しました。しかし、結局は、『チームの和を乱し、命令に従わないなら、独りで勝手にやれ』というのが会社の結論でした」。

94年、舛岡は東芝を退社し、東北大学の教授に就任した。

しかし、東芝の言い分は異なる。広報担当者によると、舛岡が打診されたのは、部下の教育が可能なポストへの昇進であるうえ、「当時、フラッシュメモリの市場はさほど大きなものではなく」、東芝の屋台骨を支えていたのはDRAMであった。

前半インタビュー=岩坪文子 02年取材文=ベンジャミン・フルフォード 翻訳=松永宏昭

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