マサダの砦から死海を望見した後、車はアラブ人の自治区に向かっていた。イスラエル人のドライバーは、ひげに覆われた顔をしかめながらブツブツと文句を言い続ける。灼熱の太陽に、簡易舗装の一本道がゆがんでいる。
急ブレーキがかかった。ひげ顔が絶叫する。「Look at that! I did tell you so!」道の向こうで何やら動くものがある。車のエンジン音をはね返すような轟音が緊張感を高める。戦車だ。砲身がゆっくり上下して、こちらに照準を合わせている。ドライバーはこの地域に入り込むことを極度に恐れていた。チップをはずんで説得したが、彼の不安はこういうことだったのか。後悔してももう遅い。私たちは銃を構えた数人の男たちに囲まれてしまった。
同乗するガイドが緊張しながら男たちと言葉を交わす。アラブ人たちの表情が和む。ガイドは「死海の泥でできた美顔剤を山ほど買いに来た日本人だ。買い物をしたらさっさと帰る」と応じたのだ。
30分後、美顔剤でいっぱいになった車のトランクを見たアラブ人たちが、満足そうに笑顔で手を振る。帰路の車中は皆、無言だ。しばらく走ると、道の右側に砂漠地帯とは思えない森林が広がった。鳥の鳴き声も聞こえる。私が「厳しい土地だが、緑は和むね」と安堵の言葉をかけると、ドライバーが吐き捨てるように返してきた。「日本人は能天気だな。木々の下には無数の地雷が仕掛けてあるぜ」。
エルサレムに戻って一息ついた。不思議な街だ。嘆きの壁はユダヤ教の、聖墳墓教会はキリスト教の、オマール・モスクはイスラム教の聖地である。3つの宗教の聖地が背中合わせに同居している。確かに、この3宗教はともに旧約聖書のアブラハムの子孫たちを礎としているから、「アブラハムの宗教」と総称されるし、初期のイスラム教はユダヤ教徒やキリスト教徒を「啓典の民」としてそれなりに尊重していた。
だが、これら同一ルーツをもつ宗教間、民族間の争闘は長く、激しく、凄惨だ。4000年前のことと伝えられるが、イスラエルの民が神に与えられたとするカナンの地にはすでに先住民がいた。ペリシテ人だ。ペリシテはパレスチナの語源といわれる。つまり遠い昔からパレスチナをめぐる争いがあった。その後のイスラエル人は苦難の道を歩む。弱小民族だったので、近隣の強国からの圧迫が強かった。バビロン捕囚が典型だ。ローマが勢力を伸ばすと、イスラエルはその支配下に置かれた。象徴的な悲劇がマサダ砦の玉砕である。祖国を失ったイスラエル人の歩んだ厳しい歴史はナチスのホロコーストにまで至る。第二次大戦後も彼らへの差別が続いた。グレゴリー・ペック主演の映画『紳士協定』は米国の実態を描いた。



