だがここで、ケアは私的、生産労働は公的なものとして、それぞれ得意な人がやり、補い合えばよいのではないか、根本的な変革など不要ではないか、という疑問もわく。重要であるのは、公私二元論とは「公」に対してケアが従属的に位置づけられているということだ。ケアが従属的に私的な領域に任せられる、ということは、実はケアを大切にしていないばかりか損ねている。エヴァ・F・キテイは、ケアする人はケアをすることで自分のことが後回しになり、賃労働ができなくなるなど「二次的依存」に陥るという(注12)。つまり、ケアする人は、ケアをすることによって、その人もまた誰かにケアされないといけない状態に必ずなるということだ。ケアを女性や母親なら自然にできるものとして家族の問題としてしまう公私二元論は、「ケアする人のケア」を不問にしてきたという意味で、抑圧的に働くのである。
「ケア」中心のオルタナティブな社会を構想するために
以上のような、ケアの倫理やフェミニストたちの議論からは、私たちの社会は一貫して、ケアを私的な領域の問題とし続け自己責任化してきたこと、その構造自体が限界をむかえていることがわかる。
「ケア」が重要であるという主張に面とむかって意義を唱える人は多くないだろう。しかし、その地位を根本的に見直し、ケアを中心にした社会にせよという主張には抵抗が生じやすい。それだけ、ケアを性差別的に女性に押し付ける家父長制、そして、経済的成長や富の追求こそが社会をドライブさせるとしてきた資本主義社会の変化やオルタナティブを想像するのは簡単ではない。現在のケアが置かれている状況を、変革すべきゆがみや不公正というと、私たちはとっさに、それは経済を停滞させてしまうのではという恐れに駆られる。
しかし、ケアの倫理やフェミニストたちの議論は、私たちの豊かさ、人々のニーズ(それは消費者のニーズでもある)はケアにこそあるのではないだろうかと問いかける。ケアは、政治を生み出し経済をまわす原動力にもなる(注13)。社会を持続させるためにも、私たちはもっとケアすることやケアされることを権利として(注14)、中心に考えてよいはずだ。
「少子化対策」のロジックのなかでは、子を生み育てることは、国の役に立つ、経済を支える、老後を支えるなど、将来のリスクへの投資であり、「役に立つ」ことが強調される。子を生み育てる人も、生み育てられる人も、役に立つ存在でなければならないというメッセージとたたかい続けることとなる。2000年代以降の母子家庭への福祉も、新自由主義的改革の結果「就労による自立」モデルへと転換し(注15)、母親は「稼げる主体」であることが暗黙の了解のように当然とされるようになってきた。このような変化のなかでは、母親は、就業や雇用にまい進せざるをえず、他方で人知れず子どものケアとの葛藤をますます深めていくことが考えられる。
注12:エヴァ・フェダー・キテイ著、岡野八代・牟田和恵 監訳、2023、『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』。白鐸社。(Kittay, A. F. (1999) Love’s Labor: Essays on Women,Equality, and Dependency.London: Routledge.)
注13:ジョアン・トロント著、岡野八代著・訳、2020、『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』白澤社
注14:ケアを権利として提唱し論じたのは、上野千鶴子、2011、『ケアの社会学』である。
注15:湯澤直美「母子家庭対策における2002年改革の変遷と検証」(杉本貴代栄編、2012。『フェミニズムと社会福祉政策』(pp.24-45)。ミネルヴァ書房)。湯澤は、その「就労による自立」モデルの特徴がより端的に示されたのが、児童扶養手当制度における一部支給訂正措置の導入であると指摘する。これは、2002年新設の児童扶養手当法第14条第4項において「受給資格者が正当な理由がなくて、求職活動その他厚生労働省令で定める自立を図るための活動をしなかったとき、その額の全部または一部を支給しないことができる」とし、その措置を2008年から導入するものである。


