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2025.08.10 15:00

「働く母」のしんどさ。いま必要なのは「ケアする人のフェミニズム」

eamesBot / Shutterstock.com

ギリガンの著書に登場するように、脆弱な存在である誰かに応答せんとし、助け、共にあろうとする葛藤は諸々の判断を白黒はっきりとできず、ゆえにただなかにある人から発せられる声は聞き届けられ難い。しかもそれは家庭のなかや私的とされる関係性のなかで行われる。介護、育児、看護などケアの責任を担う者は、ケアが必要な人の側にいる必要があるため、政治集会やステージ、意思決定の場である会議室の場に立つことのハードルが高くなる。ケアの「声」は不可視化されやすい。

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そしてケアの活動/労働は、社会のなかでより立場の弱いとされる人にしわ寄せ的に担われることが多い。会社組織のなかでも、職位や立場が下の人ほど「上」の人のケア(主に感情面ということになるだろうが)を行う。そしてケアされている側はどこまでもそれに鈍感でいられるという構図は社会のどこにでも見ることができる。

このような構造があるからこそ、ケアの倫理から発せられる声は、非合理的であり、自己と他者の区別が曖昧な感情的で未熟な在り方とみなされ、女性蔑視としても強固に維持されてきた。ギリガンのいう「もうひとつの声」とは、他者をケアする責任を引き受けているにもかかわらず、感情的で未熟だとみなされ聞き届けられない女性たちの声を指しているのだ。

ケアは「私的」で十分?「ケアする人のケア」問題

ギリガンの議論は、当初から、「正義の倫理」は男性のもので「ケアの倫理」は女性のものであるという主張であると誤解されてきた。そのため、「ケアの倫理」をいたずらに称賛することは女性を従属的な位置に余計に押しとどめる効果をもつと多くの批判があった。しかしギリガンは、11年の著書で、ケアの倫理は、民主主義的な社会では「人間の倫理」になると述べている(注11)。つまり、今でも私たちにとって、どこか「正義」と「ケア」がそれぞれ「男性らしさ」「女性らしさ」のように見えるのは、社会における役割規範のためだ。

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近代以降、社会は公私二元論、すなわち、「公(経済、政治、近代的個人が活躍する領域、生産的な領域)」と「私(家族、身体、個人が休息する領域、再生産の領域)」の分離と性別分業、すなわち「男性稼ぎ手モデル」を強固に維持してきた。対して、ギリガンは、私たちは「ケア」と「正義」のどちらも人間の倫理として発達させるべきであるとし、ケアを「男性」と対立的な「女性」のものとラベリングし、価値を切り下げるような社会の歪み自体を変革する必要を説く。


注11:キャロル・ギリガン著、小西真理子・田中壮泰・小田切建太郎訳、 2023、『抵抗への参加』晃洋書房

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文=元橋利恵 企画・編集=一般社団法人デサイロ

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