筆者は、21年の拙著において「自己責任化する母性」という言葉で現代の状況を表現した(注9)。戦後の高度経済成長で大衆化した近代家族とその性別分業のもとで、「母性」はこれまでも女性の「自己責任」とされてきた。しかし、現代ではより苛烈に、より孤独に、母であることは自己責任化されている。本稿の最後で述べるように、私たちは自分の望ましいケアを必ずしも自分で決められるわけではないのにもかかわらず、だ。
他方で、「少子化」の状況において、女性が母にならないことは国の将来を脅かしかねない公的な懸念事項として認識されてきたはずである。さまざまな施策は打たれてきている(ように見える)にもかかわらず、状況は一向に改善せず、母親のしんどさの声はSNSでも連日話題になっている。なぜこのような状況に置かれているのだろうか。本稿では、フェミニストたちによるケア論を紹介するかたちで、基底にある社会のゆがみから、この問題を考えてみたい。
不可視化されるケアの「声」「ケアの倫理」の視点
2010年代以降、日本でも「ケア」に関する、またはケアの視点をもった研究が多くなされるようになってきた。ケアとは、世話をする、配慮するなどの意味をもつCareのことである。ケアが注目される背景には、コロナ・パンデミックも大いに影響しているだろう。人々は自身の身体や健康がいかに簡単に脅かされるか、社会生活上「ケア」が不可欠であることに自覚的にならざるをえなくなった。また医療、看護、介護、子育てなどの人間の世話にかかわるエッセンシャルな労働は、パンデミックに大いに影響を受け、担い手の負担やその待遇の低さに注目が集まるきっかけでもあった。
だがそれだけではない。ケアは、そのような個別の労働だけではなく、物事を見る視点や他者とともにあるための倫理としても注目されてきた。そしてそれはフェミニストたちによって、それまでの知の世界では顧みられることのなかったケアの活動、すなわち、主に女性によって担われてきた家事や介護、子育てとそれを行う女性たちに目と耳を向け、女性たちが培ってきた視点やものの見方を評価することでなされてきた。
フェミニストであるキャロル・ギリガンは、著書『もうひとつの声─男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』(In a Different Voice)(86年、22年に新訳が出版)において、個人の権利や法の尊守を志向する「正義の倫理」に対して、他者との相互依存(関係)を前提とし、関係性を維持する責任を果たそうとし、他者と自身とのあいだで道徳的に葛藤を続けるような在り方である「ケアの倫理」を提唱した(注10)。
注9:元橋利恵、 2021、『母性の抑圧と抵抗──ケアの倫理を通して考える戦略的母性主義』晃洋書房
注10:キャロル・ギリガン著、川本隆史・山辺恵理子・米典子訳、2022、『もうひとつの声で 心理学の理論とケアの倫理』風行社


