食&酒

2025.07.31 11:45

日本のガチ中華の最古参「陳家私菜」創業30周年でオーナーが語ったこと

四川料理店「陳家私菜」の創業30周年パーティーでは二胡の演奏も行われた

四川料理店「陳家私菜」の創業30周年パーティーでは二胡の演奏も行われた

7月28日、四川料理店「陳家私菜」の創業30周年パーティーが、同グループの8号店となる新橋店で開催された。

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陳家私菜は今日の麻辣豆腐ブームの火付け役であり、刀削麺やよだれ鶏といった香り豊かな豆板醤を使った本格的な四川料理を日本に持ち込んだ店である。

これは昭和の時代に陳建民さんが伝えた「いいウソ、おいしいウソ」と自ら語った、日本人の口に合わせたマイルドな麻婆豆腐とは別物で、強い刺激とシャープなシビれを感じさせる新食感が特徴だ。グループの各支店は日本の若い世代を中心に人気店となっている。

オーナーの陳龐湧(ちん・ばんゆう)さんは、パーティーのあいさつで、長く苦労も多かった日本での飲食店経営の日々を振り返りながら、自分のやってきたことは「日本への恩返し」だと語った。

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パーティーでは陳家私菜のオーナーの陳龐湧さんが30年の思いを語った
パーティーでは陳家私菜のオーナーの陳龐湧さんが30年の思いを語った

原点は本場の豆板醤を使った麻婆豆腐

陳家私菜は、1990年代以降に現れた新華僑による黎明期の飲食店で、今日まで続く稀有な店である。つまり、陳さんはガチ中華の最古参の人物といってもいい。

実は、同じ頃に店を始めた中国の人はけっこういたが、現在まで継続している人はほとんどいないからだ。

上海出身の陳さんは、1988年、25歳の時に来日した。アルバイトをしながら語学学校に通う日々が続いたが、料理の勉強をしながら開業資金を貯め、7年後の1995年に東京の赤坂で1号店となる「陳家私菜 湧の台所」の開店に至る。

彼がよく口にする当時の苦労話は「日本円5000円と両親にもらった1袋の米を背負って来日したこと」「アルバイト先で首になり、住む場所もなくなり、公園で寝泊まりしたこと」「開店当初は『こんな辛い物は食べられるか』と来店客に言われたこと」などいろいろあるが、今日の豊かな時代に育った中国人留学生には想像もつかないことだろう。

もう数年前だが、陳さんにいくつかの身の上話を聞いたことがあった。まず彼がなぜ卒業後、最初に通訳として勤めた商社を数年で辞め、レストランを始めようと思ったのか。彼はこう答えた。

「もともと自分の店をやりたいという強い願いがありました。来日前には上海錦江濱館や上海ヒルトンホテルで中華料理の基礎を学んでいた時期もあったのです。会社組織のなかで上を目指すことの難しさも感じていました。それ以上に、日本に来て多くの方に助けていただいた恩があり、自分にとっていちばんわかりやすいお返しが食による貢献だと思ったのです」

では、看板メニューともなった「頂天石焼麻婆豆腐」は、どのようにして生まれたのだろうか。

陳家私菜の名を広めた、アツアツの「頂天石焼麻婆豆腐」
陳家私菜の名を広めた、アツアツの「頂天石焼麻婆豆腐」

「当時の日本の四川料理は、陳建民さんが日本人向けに豆板醤を自作するなどして広めたもので、本場の味とは違いました。私は開業前に四川省へ渡り、国営の『郫県(ピーシェン)豆板醤』の会社と交渉しました。

四川料理の味の決め手である郫県豆板醤は辛みと塩みの強さが特徴
四川料理の味の決め手である郫県豆板醤は辛みと塩みの強さが特徴

最初は小さなレストランということで相手にされませんでしたが、熱意が通じ、特別な豆板醤を仕入れることに成功しました。これが日本で初めて本場の豆板醤を使った麻婆豆腐であり、当店の原点です」

豆板醤は、ソラマメなどを塩漬けにして発酵させ、トウガラシやゴマ油などを加えて作る調味料で、辛さと香りの豊かさが特徴だ。その代表的な産地が、四川省成都市の北西郊外にある郫県(現在は郫都区)という地で、中国では全国的に知られる豆板醤の古里である。彼は商社時代の仕事の縁もあり、この仕入れに成功したのだった。

成都市郫都区にある成都川菜博物館には、豆板醤が入った甕がズラリと並ぶ
成都市郫都区にある成都川菜博物館には、豆板醤が入った甕がズラリと並ぶ
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文=中村正人 写真=佐藤憲一

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