仕事が、したい。
母親の令子さんは兄たちと違い、スローペースな美香さんの発育を心配し、小児科医に相談したことがあった。脳波を測って異常なしと出ると、心配し過ぎと一蹴された。
美香さん自身も彼女なりに向き合ってきた。しかし、努力の方向が人とは違っていた。虚言癖を身に着け、中学では荒れることもあったことは前稿で伝えたが、農業高校に進むと、皆の怖がるニワトリ捕縛などを軽々とやって称賛され、ストレスがなかった。そして、高齢者に喜ばれる介護や看護助手の仕事に精を出した。
しかし、現実は現実。冤罪の仲間を励ますために、全国を飛び回るかたわら、今は仕事を探してハローワークに通う日々が続く。無実の罪はようやく晴れたが、彼女の心はまだ曇りガラス状態だと私は思う。それは、以下のエピソードからもうかがえる。
刑事事件の再審無罪判決が下り、しばらくたったころ。仕事のことで悩む美香さんは、不眠がひどくなった。偶然、オンラインで繋がるカウンセリングルームのアプリを知った。全国に控えるカウンセラーのひとりがどれだけでも話を聴いてくれる。料金は後から登録したクレジットカードから引き落とされる。
「潔白証明」と同じくらい重要な彼女の「普通」、それは——
美香さんは途中から、熱心に聴いてくれるあるカウンセラーを指名し続けた。オンラインで話し続け、気がつくと夜が明けていることもあった。カウンセリング料金もひと晩通すと大きな額になる。それでも彼女はなかなか止められなかった。
これは精神科・心療内科で行うカウンセリングとは似て非なる代物と考えられる。カウンセリングでは必ず一回当たりの時間(通常30~60分以内)が決まっている。「治療構造」といって、不安定な患者(相談者)の心の状態を一定に保つのに不可欠な要素だからだ。儲かればよいというのでは、治療ではない。
ともあれ、そんな相談先にさえ藁をもすがる気持ちだった美香さんのことを思わずにはいられない。
仕事をしたいイコール普通になりたい、という気持ちは冤罪が晴れるのと同じくらい重要なのだということが、獄中鑑定以来付き合ってきた私には痛いほどわかるのだ。
還暦世代の私たちは「普通の女の子になりたい」と聞くと、反射的にキャンディーズの解散を思い浮かべる(と思う)。華やかなカクテルライトを浴びる陰で、ランちゃん・スーちゃん・ミキちゃんがそう思っていたことを、解散発表前に感じていたファンはどれだけいたか?
同様に、西山美香というひとりの平凡な女性が、障害ゆえに巻き込まれた冤罪にスポットライトが当たる今こそ、彼女の「人となり」を多くの人たちに伝えたかった。私たちの誰もが、「普通」を願うのだと思う。今の日本は格差社会に堕したといわれる。失われし30年と。美香さんの失われた20年——。
あらためて、ひとりひとりに問うてみたい。
「ふつう」って何ですか。


