「見たことのない回答」
「すみません。いつもこれくらいスピード出していてもなにも言われなくて、、」
数百人以上に検査してきた私にとっても、見たことのない回答だった。家族が急病で、とかなんとか取りつくろうのが普通の感覚なのに、あまりにも無防備。そう答えることで、自分がどういう窮地に立たされるか、想像できない。
他人を喜ばせることが自己の愉楽
山本誠刑事から暴行同然の追及をされ、アラームが鳴ったと答えてしまった美香さん。その後は刑事に「お兄ちゃんたちと同じように賢い」と言われ、承認欲求を満たしながら、まんまと誘導に従ってしまう様子が検査結果に「まんま出ている」のがわかる。秦記者はそれを「無垢の心」と呼んだ。
彼女は、業務上過失致死容疑で取調べを受ける看護師を助けるために、自分がやったことにしようと思いつき、人工呼吸器のチューブを抜いたと“自白”した。しかし、呼吸停止患者のチューブを抜くことが殺人罪に該当することは想像できなかった。逮捕という言葉の意味すら、当時はよくわからなかったという。
これを精神医学的に見れば、他人を喜ばせることが自己の愉楽につながる気質を持つことの多いADHD(注意欠如多動症)と、客観的な判断力に欠けることもある知的障害(今は知的発達症と呼び、ADHDと同じ神経発達症群に分類される)のなせるわざ、ということになる。
しかし、神経発達症の中には、一度見たものをカメラで写したように覚えていられるような特殊能力をもつ人もいる。美香さんは関心を持った人の誕生日を覚える記憶力が頭抜けている。私の還暦祝いに人形とマグカップを贈ってくれた優しい心を持つ女性。もっとも、陶器製カップに緩衝材を巻かずに郵送してきたので、箱を開けたら割れていたのはADHDに特有な不注意さのご愛敬だったが。
これまでの報道で、美香さんは神経発達症の側面ばかり強調されてきたが、実は彼女の心の病はそれだけではない。
私は獄中鑑定などを下敷きに2019(平成31)年、再審被告人西山美香の鑑定意見書を作成した。彼女の承諾を得てここに記すが、診断は「軽度知的能力障害・ADHD」のほかに、もう一つある。
「気分循環性障害」(ICD-10 :F34.0)
これは、双極性感情障害(躁うつ病)ほど気分の波が激しく上下に振れないが、それに近い抑うつや高揚を繰り返す精神疾患だ。明らかな原因がなくとも生じる点が、心因性の抑うつ反応と異なる。神経発達症にはかなりの割合で、こうした精神疾患の合併することが研究で分かっている。
先日も美香さんは、国家賠償訴訟判決を前にして眠れぬ日々が続き、相談を受けた。彼女は今も精神科を受診している。しっかり話を聴いてくれる主治医がいて、精神的には落ち着いてきたのだが、さすがに判決前は動揺したのか不眠が続き、余分に睡眠薬を飲んでしまった。
不眠時の様々な対処法をLINEと電話で伝え、なんとかしのいだ。だが、判決前夜はしっかり寝たのに、当日のテンションは逆に上がっていた。躁的防衛という解釈もできたが、以前から周期的に気分の高揚を認める。最も信頼する井戸先生にすら攻撃的になることもある。気分循環症ゆえと思えるが、一番深刻な悩みが、ある。


