ここで過ごす一日を買う。この一日を買う。ここでこの一日を過ごす自分に会う――作家・吉田修一が体験したNOT A HOTEL のひとときを描く特別寄稿。
「ねえ、NOT A HOTEL って知ってる?」
「ウェブの広告で見たことあると思う」
「今度、行くんだよ」
「いいなぁ」
「でも、NOT A HOTEL……って、変わった名前だよね」
「否定形だもんね」
「HOTELではない、か……」
「広告で見た時にね、それは那須にある物件だったんだけど、『これって、どこにあるんだろう』って思ったんだよね」
「だって、那須じゃないの?」
「うん、それはそうなんだけど。……でも、建物の写真をずっと見てると、これが那須のどこにあるんだろうって思えてきて。私の知ってるあの那須なのかなって。いや、もちろんそうなんだけど……」
「NOT NASU、ってこと?」
「いや、もちろんあの那須にあるんだよ。でも、そこはさ、きっと桃源郷みたいな、私たちが誰も知らない場所で……」
青田が広がっていた。
東北道のインターを降りて、どれくらい走っただろうか。途中、大手のコンビニにも寄ったし、前を走っていたトラックは見慣れたクロネコが描かれていたし、これといって普段と変わらぬドライブだった。
それが視界に一面の青田が広がった瞬間、ふいに数日前の会話が思い出された。
桃源郷。
誰も知らない場所。
青田の色は、それほど鮮烈だった。
目的地はちゃんとカーナビにある。途中で道が途絶えたり、案内のアナウンスが乱れることもない。
それでも、自分が今、何かから切り離されていくような感覚になる。
でも、何から?
すぐに浮かぶのは、東京の暮らしである。いわゆる日常。いつも通る道、いつも寄るスーパー、いつも見る街路樹、いつも座っているリビングのソファ。
いやな感覚ではない。いやどころか、もっとこう弾むような感覚。「自由」とでも名付けたくなるような……。
目的地周辺にきたことを、カーナビが知らせる。
もちろん、道はちゃんと繋がっている。

「たまに思うんだよね。自分と一緒に旅行できないのかなって」
「え? なに?」
「あ、急にごめん、……いや、だからね、たまに考えるんだよね。誰と旅行に行ったら一番楽しいのかなって。もちろんあなたや家族との旅行は楽しい。それは置いといて」
「だったら友達じゃないかな? 気楽だし」
「そりゃそうだけど。でも、だったら友達より、自分の方が気楽だし、気も合うと思うんだよね」
「それって、一人旅じゃないの?」
「まあ、そうなんだけど」
「急にどうしたの? 何からの発想?」
「何から……、ああ、たぶんさっきの」
「さっきの?」
「ほら、NOT A HOTEL、NOT NASUからの、NOT MYSELFかも?」
「かもって……」
「笑わないでよ〜」
「いや、だってさ、ホテルでもなく那須でもなく、さらに自分でもなくなったら、もう何も残ってなさそうじゃん」
「そうなんだけど。……いや、でもなんか、逆な感じもしない?」
「逆?」
「そう。何も残ってないんじゃなくて、そこに全部あるような……」

日が落ちて、広々としたリビングはさらに魅力的になった。
日中、窓の向こうで輝いていた草原は夜にまぎれ、一面のガラス窓には室内の間接照明がぽつりぽつりと映り込んでいる。まるでその一つ一つに物語があるように。
何かから切り離されたという感覚は、まだ続いている。
直感に頼るとすれば、それはやはり日常からなのだと思う。東京から。仕事から。日々の生活から。
そして、ここで時間を過ごしているうちに、ふと気づく。
もう一つ、自分からも切り離されていると。
大きなガラス窓には、いつもと違うソファにくつろぐ自分が映っている。まるで窓の外に、もう一つこのリビングがあるようである。
もしかすると、ここにいるのが自分から切り離された自分だからかもしれないが、ふとこんな突飛な発想が浮かぶ。
時間を買うことは可能ではないだろうかと。
もちろん時間を買うことは不可能である。どんな富を得ようと、ただの一秒でさえ、人は自分の時間を増やすことはできない。さらに言えば、ほとんどの人は自分の時間を売って生きる。
ただ、ここにいると、なぜかそれが可能に思えてくる。
ここで過ごす一日を買う。この一日を買う。ここでこの一日を過ごす自分に会う。
ソファから立ち上がり、大きなガラス窓に近づいていく。きっと窓の向こうには月明かりのなか、夜の草原が広がっている。
ここはどこなのだろうか、と改めて思う。
ここはホテルではない何かであり、那須ではないどこかであり、自分ではない自分が自由を手に入れている。

吉田 修一◎作家。1968年長崎県生まれ。法政大学卒業。1997年「最後の息子」で文學界新人賞を受賞しデビュー。2002年に『パレード』で山本周五郎賞、『パーク・ライフ』で芥川龍之介賞を同年受賞。その後も『悪人』『横道世之介』など数々の作品で文学賞を受賞。2016年より芥川賞選考委員を務める。著作は映像化も多く、2025年6月公開の『国宝』が大きな話題に。



