こうした会話を経て、ぼくたちは京都市内に足を踏み入れます。
政治や宗教の権力が集中していたのが京都の歴史です。西陣のテキスタイルメーカーでは法衣や寺内部の装飾で使われる金箔を見ることが多いです。その金ぴかぶりが目につきます。そういえば金閣寺も金箔と漆のなせる技です。
日本人も外国人も日本文化とはくすんだカラーを基調としていると思いがちですが、ピカピカした世界がある。もちろん、「金閣寺より銀閣寺が好み」と話す人たちも多いでしょう。ここでも、それは暗に金ぴかを忌み嫌っている、と主張しているようにも聞こえます。
そもそも、輝く金色の好き嫌いは趣味の話なのでしょうか。インドの人やビザンチン文化圏の人は趣味が悪いのか? スカンジナビア文化圏の人は趣味が良いのか? どうして、こうも光ものが明確な線引きを招きやすいのか?
前澤さんが「金を取り巻く物語の「重さ」や「熱」、あるいは敷居の高さからくる排他的な印象が「金=いやらしい」のようなイメージを人々に植え付けているようにも見えます」と書きましたが、金にまつわる人々の憧れと迷いを考えるのは、ラグジュアリーを考えるに絶好の題材、さらにいえば根本的課題でさえあるのだと今更にして気づきます。
輝くのに拒否感があるのは、そこに強い自己アピールが見えてしまうから。マットな金色なら受け入れやすいというのはクワイエット・ラグジュアリーの論議を思い出させます。「新しいラグジュアリー」における金色とはどのような位置をしめるのでしょう?
例えば、高級化粧品のパッケージには金色が多用されてきましたが、最近の傾向としてマットな金色、あるいはアクセントとして一部に小さく金色を使うとの流れがあるようも思えます。これらの現象は金色の価値がなくなっているわけではないが、金色の見せ方が変化していると解釈できます。
なくてはならない存在ながら、その存在感を主張しすぎない。これが金色を通じてみえるラグジュアリーの風景ではないかと思いながら、ミラノに戻る機内でこの記事を書くためのメモの用意を始めました。
ミラノの自宅に戻り、本棚から1冊の本を取り出しました。以前、前澤さんにも勧められたカシア・セントクレア著『色の秘めたる歴史 75色の物語』です。
金色のページをひらくと、ジオットの絵画に加え、サンドロ・ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』やグスタフ・クリムト『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』の金色の使い方が紹介されていて、今後、この色についてもっと追っていこうと決意した次第です。まずはブレラ美術館に出かけ、並んでいる絵画にある金色だけを拾ってみていこうと思います。前澤さん、あらたなテーマを提供くださって感謝です。


