先月末、前澤さんから前半の原稿を受け取ったとき、ミラノ工科大学でデザインを教える、ぼくの友人でありビジネスパートナーでもあるアレッサンドロ・ビアモンティと一緒に日本に滞在していました。京都や丹後でテキスタイルメーカーを何社も訪れ、その後に大阪の万博に足を運びましたが、その旅の折々で金、あるいは金色について意見を交わしました。
正確にいうと、前澤さんの原稿を読んだのは丹後に滞在しているときです。山が連なり、田園風景があり、街を歩いていると生地を織るリズム感ある音が聞こえてくるような環境です。とても情緒のある風景が続きます。金とはやや距離のある雰囲気です。正直、金とはまた面倒なテーマを選んでくれたなぁと瞬間的に思いました。
金が経済的価値の指標としてあるという点をとりあえず脇におき、金色についてぼくが最初に思いついたのは、かつて日本画家の知り合いが「青色と金色を使うと千年以上、作品が生き残りやすい」と話していたことです。その時はあまり深く捉えていなかったのですが、年を経るに従い、彼のコメントが繰り返し頭に蘇ってくるようになったのです。
そのエピソードをアレッサンドロに伝えたら、彼は「宗教的空間における金は、ヨーロッパでは特に東方教会での印象が強く、カトリック教会ではその傾向が弱まり、プロテスタントではさらに弱い」と話しを継ぎました。彼はアクセサリーにも関心が強く、「スカンジナビア諸国で金は好まれない。他方、インドの人たちは金を好み、文化圏により金への傾倒度が異なる」と続きます。
家具の国際見本市であるミラノサローネの会場を歩いていて気がつくのは、金色の輝きが目に入るインテリア家具はクラシック様式であるということ。コンテンポラリーデザインではありません。想定される顧客は中東やインド、あるいは中国のお金持ちです。ロシアも入ります。
以前、これらの国々とビジネスをやっている人に教えてもらったのは「モスクワとサンクトペテルブルクでは違い、前者が光ものを好む」ということでした。それは言外に、モスクワ人は悪趣味との批判が込められています。趣味の良い人は光るものに惹かれたりしない、とでも言いたげでした。
しかし、そう言えば……とぼくがさらに想起したのが、イタリアのパドヴァにあるスクロヴェーニ礼拝堂内のジオット(1267-1337年)によるフレスコ画です。あれは迫力ある空間ですが、天井に描かれているのは青い空と金色の星。やはり、前述した日本画家の言うこれらの2色が絵画サバイバルのユニバーサルな鉄則なのか、とふと考えます。
そんなことをアレッサンドロに指摘すると、「あのジオットの作品は金色なのか? 黄色に見えないか?」と彼は問うてきます(後で、ネットで確認すると、銀色にも見えてしまいます)。
それで始まったのが、金色もピカピカの金色とマットな金色とまったく扱いが違う、という話。趣味が悪いと西欧で評されてきたのは、およその場合、金ぴかの状態を指しているのだ、と。金色そのものではなく、「輝く金色」に対して好悪が分かれるのではないかということです。ポイントは輝くか否かである、色そのものではない、と。


