私たちの日常は、仕事や勉学、趣味や遊び、家事に子育て、交友や恋愛など多様な活動に彩られている。それを仮に「人間的現実」だとしよう。これらを見えないところで規定しているのは、複雑に絡み合った「政治的現実」だ。
だがある時「政治的現実」が前面化し、「人間的現実」を完全に塗り替えてしまうことがある。そのもっとも悲惨な例の現在進行形が、イスラエルの軍事攻撃によって壊滅の憂き目に遭っているパレスチナであることは、誰もが知るところだ。
パレスチナ自治区だけでなく、エルサレムやテルアビブなどイスラエルの都市においても、パレスチナ人は長期にわたって抑圧的な生活を強いられてきた。しかし彼らにも当然イスラエル人と同じように、日々職場に通い、近所の店で買い物をし、テレビでドラマを楽しみ、カフェでお茶を飲み、恋をするといった日常が存在する。
「政治的現実」での対立を一旦脇に置き、こうした「人間的現実」において人々がつながることは、不可能なのだろうか。
そんな「夢」をコメディに落とし込むという大胆な試みに挑戦したのが、『テルアビブ・オン・ファイア』(サメフ・ゾアビ監督、2018)である。ルクセンブルク、フランス、イスラエル、ベルギーの制作会社が共同で関わり、俳優もイスラエル人、イスラエル生まれのパレスチナ人、アラブ圏にルーツを持つベルギー人、パレスチナ系イスラエル人などさまざまだ。
監督のサメフ・ゾアビはパレスチナ自治区の出身で、本作は初めての長編。世界各国の映画祭で上映されて反響を呼び、主演のカイス・ナーシェフは第75回ヴェネツィア国際映画祭のオリゾンティ部門で主演男優賞を獲得した。
公開された2018年当時のパレスチナとイスラエルの状況を、ざっと振り返っておこう。
1993年、イスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長の間で交わされたオスロ合意により、パレスチナ自治区が認められたが、多くはイスラエルの軍事支配下に置かれその後も厳しい対立が続いていた。映画の中にも「和平などオスロ合意の幻想だぞ」というパレスチナ人の台詞がある。
その後、ドラマの舞台であるヨルダン川西岸地区にはユダヤ人の入植地が次々と造られ、自治区は飛地と化した。入植地との境目に巨大な壁が建設されてあちこちに検問所が設けられるなど、パレスチナ人が不自由な生活を強いられているさまは、映画でも描かれている。
こうした状況を背景にしたコメディを撮るということ自体、当時でも相当リスキーな面はあったはずだが、ガザでのジェノサイド後の現在では、本作の内容はあまりにも現実離れして映るかもしれない。パレスチナとイスラエルに関わるこのようなコメディは、もう二度と撮れないのではないか?とも思われる。
しかし、ここに描かれた個人における「政治的現実」と「人間的現実」の奇跡的な均衡、あるいは圧倒的な「政治的現実」をささやかな「人間的現実」が侵食していくさまは、今こそ見直す価値があるのではないだろうか。
ざっとあらすじを紹介しよう。エルサレムに母と二人暮らしの青年サラーム(カイス・ナーシェフ)は、プロデューサーの叔父のいるテレビ局でADをしている。職場はヨルダン川西岸地区のパレスチナ自治区ラマッラーにあるため、通勤の行き帰りに検問所を通過せねばならない。そこでのちょっとした行き違いからサラームは、検問所司令官アッシ(ヤニブ・ビトン)に、パレスチナの人気TVドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」の脚本家だと誤解される。
ドラマは、「自由の闘士」の恋人のいるパレスチナの女スパイがハニートラップでイスラエルの将軍に近づく内容で、アッシの家では妻や母がその連ドラに夢中になっている。自分の存在感を示したいアッシは、女スパイがイスラエルの将軍と結婚する結末にしろとサラームに命じ、以後何かと脚本に口を出し圧力をかけてくるようになる。
うっかり脚本家だと認めてしまったサラームは、アッシに歯向かうこともできず、職場でドラマの台詞についてアイデアを提案。それに脚本家が怒って降りてしまったため、ついにサラームは脚本を任される。
結果、パレスチナのドラマでありながら、なぜか女スパイとイスラエルの将軍の道ならぬ恋が描かれるという先の読めない展開に。それがますます視聴者を釘付けにしてしまうと同時に、当初の結末を変えたくない制作チームと、真逆のエンディングを主張するアッシの間で、サラームは板挟みになっていく。
映画の冒頭からいきなりパレスチナのテロリストが登場し、「イスラエルは戦争を始める気だ。あいつらは我々の国を盗んだ」などとシリアスな台詞が飛び出すが、カメラが引くと連ドラ「テルアビブ・オン・ファイア」の撮影現場になる‥‥という流れ。ここではテレビドラマ制作という人々の仕事や娯楽といった「人間的現実」が、虚構としての「政治的現実」を内包しているといったメタ構造が示されている。
ドラマの台詞はアラブ語とヘブライ語が入り混じっているため、ヘブライ語のわかるサラームはそのチェック役も兼ねている。それが、アラブ(パレスチナ)/ヘブライ(イスラエル)の間で板挟みになるきっかけを作るという設定だ。
全編に笑わざるを得ないシーンが多数仕込まれているが、何より可笑しく興味深いのは、検問所司令官アッシの心理と振る舞いである。
彼は一貫して、支配者としてサラームを見下ろす姿勢を崩さない。それゆえ、妻たちが”反ユダヤ”のドラマに入れ込み、あろうことかパレスチナ人の演じる「自由の闘士」マルワンを推していることが腹立たしい。彼の中では、敵役のイスラエルの将軍イェフダ=自分であり、イェフダがあの美しい女スパイ・ラヘルと結ばれれば、妻も自分を見直すに違いないとすら思っている。
このように、国家権力の末端にいる戯画的人物として描かれるアッシの心の中では、「政治的現実」と「人間的現実」が相互浸透しており、それは後半になるにつれて加速していく。
一方、アッシの妻にしてみれば、男らしいマルワンにうっとりし、ロマンチックなドラマの展開にワクワクできればいいのであって、そこに反ユダヤだの何だの現実の政治の入る余地はない。それは、サラームの元恋人マリアムが働く病院でも、同様に見られる光景だ。
女性たちはイスラエル人であろうとパレスチナ人であろうと、現実を反映しつつもメロドラマ要素のたっぷりある「テルアビブ・オン・ファイア」を楽しんでいる。厳しい支配/被支配の中にあっても、それをモチーフにしたドラマを娯楽として享受する、ごく普通の人々の生活感情が浮かび上がってくる。
アラブの食べ物であるひよこ豆のペースト、フムスも、似たような二面性を帯びている。フムスに目のないアッシは、脚本の進まないサラームから相談され、交換条件として街で一番のフムスを届けろと命じるが、サラームにとってフムスは子供の頃の耐乏生活を思い出させるトラウマ的な食べ物だ。政治的対立を超えた食文化の広がりがうかがえる一方、その裏にはパレスチナの負ってきた深い傷も刻印されているのだ。
サラームにとって、滞納している家賃の支払いのために何としてもこの仕事で認められ、それによって元恋人マリアムの愛を取り戻すことが何より重要である。そのためには、脚本でイスラエルの将軍を女性受けする優男に描くくらい、どうってことはないと割り切らねばならない。
むしろ彼は脚本を任されたのをチャンスに、マリアムにだけわかる愛のメッセージをそれとなく台詞に組み込むという、繊細な技まで駆使する。パレスチナ人であるために生活が「政治的現実」によって制限された中、振って湧いたアクシデントをバネに、彼は少しでも自分の「人間的現実」を取り戻そうとするのだ。
サラームというどこにでもいそうなアラブの青年の、痩身でやや猫背の佇まい、振られた恋人に強気に出られない寂しそうな瞳、脇の甘さから大変な状況に巻き込まれつつも、表にはあまり感情を出さずに足掻くさまは、バスター・キートン的な哀愁を感じさせて実にチャーミングだ。
演じるカイス・ナーシェフは、『パラダイス・ナウ』(ハニ・アブ・アサド監督、2005)で主人公のテロリストを演じて一躍注目された俳優だが、実はその作品においても、厳しい「政治的現実」と自己の「人間的現実」を最後に何とか両立させようとしている。
「テルアビブ・オン・ファイア」の最終回を巡って、制作チームは揉めに揉める。戦争の記憶を語り「失ったものを取り返せ」とパレスチナの勝利を主張する(でないとスポンサーも納得しない)プロデューサーの叔父。「爆撃か降伏しかないのか」と疑問をぶつけるサラーム。
追い込まれたサラームが、アッシと交渉の末におそらく二人で編み出したであろう「弁証法的」と言ってもよいラストシーンは、まさに「人間的現実」の欲望が「政治的現実」を呑み込んでしまうかたちで実現されている。
もちろんそれは、爆笑もののあまりにもアクロバティックな着地点だ。さて、これを単にナンセンスと捉えず、そこで発揮された物語的想像力をかすかな希望として見る余地は、まだ私たちに残されているだろうか。



