窓の外に広がる、満開の桜。その絶景を背景に、シューッと蒸気を上げる業務用アイロンの音が響く。白衣を着た職人たちがテーブルに向き合い、手にした生地に針を運ぶ。入り口にはデザイン画、壁一面に並ぶ色彩豊かな糸、そして、トルソーには制作中のブラウス──。
東京・代官山であることを忘れさせる、海外映画のワンシーンのような空間だ。「創業者である父の教えを守り、アトリエは本社のなかで最高の環境を」と語るのは、このメゾンを受け継ぐファッションデザイナー、芦田多恵。その“高品質なものづくり”が認められ、昨年、令和6年度文化庁長官特別表彰を受賞した。
受け継がれるDNA、進化するエレガンス
美智子妃殿下の専任デザイナーを務め、五輪日本選手団やANAのユニフォームを手がけた芦田 淳。その名を冠した「JUN ASHIDA」は、百貨店のプレタポルテの先駆けとして、日本のファッション史に名を刻んだ。
2018年、その遺志を継ぎ、芦田多恵がクリエイティブデザイナーに就任。より高いクオリティにこだわる「JUN ASHIDA」と、91年にコレクションデビューした自身のブランド「TAE ASHIDA」と。親子代々で受け継がれるケースはそう多くない。
海外ブランドは、デザイナー交代でその世界観が一変することも珍しくない。新鮮さを保つマーケティングの一種だが、それでは顧客は置き去りになる。同社には3世代にまたがる顧客もいる。「その方々にも満足してもらいたい。でも私は父ではないから、父と同じことはできない」。本質である“エレガント&プラクティカル”を貫きながら、変えることと変えないことを常に自問自答し、「例えばデジタルでできること、人間だからできること、いいところを抽出して合わせればいい」と柔軟に向き合っている。
業界全体に目を向ければ、バブル崩壊、ブランドの撤退が相次ぎ、低価格・大量生産のファストファッションが市場を席巻。さらに、リーマンショックやコロナ禍といった未曾有の事態が、深い爪痕を残した。百貨店は売り上げと店舗数を減らし、アトリエを手放したブランドも多い。そのなかでジュン アシダはなぜ、一等地のアトリエを守り、クリエイティブと密接した経営を続けることができるのか。
「自社のアトリエは、デザインの意図をダイレクトに伝えながら、ファーストサンプルをつくれる場所。阿吽の呼吸は、長年近くで働いているからこそ。外注では技術や世界観の伝達は難しく、せっかく伝えたとしても人が入れ替わってしまう」と芦田。
同社には今年も10人の新卒が入社し、4人がアトリエに配属された。縫製とパターンの仕事は、細分化された専門領域ごとに、経験豊富な先輩たちに囲まれて、時間をかけて技術を習得する。結婚や出産を経ても、多くの従業員がキャリアを継続する。長期的な育成にかかる人件費は決して小さくないが、ブランドのレガシーを継承し、さらに成長させていくためには、デザイナーだけでなくそうしたプロフェッショナルが不可欠だ。



