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2025.07.04 11:30

「資本主義の祭典」が生まれるまで、バークシャー・ハサウェイ株主総会の歴史

Scott Olson/Getty Images

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「もしあなたの人生が幸運に恵まれたものであるならば、他の大勢の人々にも幸運をもたらすような行動をすべきです」 ── ウォーレン・バフェット

ネブラスカ州オマハ、ナショナル・インデムニティー・カンパニーが所有するビルの4階にあるランチルームではかつて、「会議中」と手書きで書かれた看板が閉まった二重扉に掲げられていた。自動販売機とコーヒーメーカーの横では、ウォーレン・バフェットがバークシャー・ハサウェイの年次株主総会を進行している。参加者はおよそ20人ほどだった。形式的な議事はわずか5分で終了した。そしてバフェットはこう言った。「あと1時間ありますから、投資ビジネスについて話をしたい人がいれば、いつでもどうぞ」

1970年代のこのささやかな集まりは、世界中から何万人もの投資家がオマハに集まる今日の大宴会とは似ても似つかないものだった。この年に一度の株主総会の変貌は、バークシャー・ハサウェイそのものの驚くべき進化の道のりを映し出している。もとは経営難に陥った綿織物会社であった同社は、バフェットのリーダーシップの下、1兆ドル規模のコングロマリットへと成長したのだ。

謙虚な始まり

バフェットがバークシャー・ハサウェイの経営権を得た1965年当時、同社は経営状態の悪い綿織物会社だった。彼が多角化に向けて最初に大きく動いたのは、1967年にナショナル・インデムニティー・カンパニーを860万ドル(約12億4700万円)で買収し、バークシャーが保険業界に参入した時だった。

1969年から1979年まで、初期の株主総会はナショナル・インデムニティーのランチルームで開催され、出席者が20人を超えることはほとんどなかった。そのほとんどは、友人や家族、そしてまだ金融界で有名になる前の若きウォーレン・バフェットに信頼を寄せていた初期の投資家たちだった。

成長期

1980年代にかけてバークシャーのポートフォリオと名声が高まるにつれ、株主総会も成長した。ランチルームが手狭になり、レッド・ライオン・ヒルトン、ジョスリン美術館のウィザースプーン・コンサートホール、2000人ほどを収容できるオルフェウム・シアターなど、徐々に大きな会場に移っていった。

1990年代には、参加者は数千人にまで膨れ上がった。ホリデイ・イン・コンベンション・センターが次の目的地となり、1万人収容のシビック・オーディトリアムがそれに続いた。この時期に、このイベントは通常の株主総会から、より「金融の祭典」に近いものへと変貌を遂げた。

展示会

天才的なマーケティングセンスを持つバフェットは、株主総会でバークシャーが保有する成長企業の製品やサービスを展示し始めた。参加者は株主総会の会場で、シーズ・キャンディーズのチョコレートを購入したり、ネブラスカ・ファニチャー・マートで家具を見たり、フルーツ・オブ・ザ・ルームのアパレルを買ったりすることができた。この展示会により、バークシャーの株主総会は教育的な場であると同時に、同社の多様な保有資産を紹介するショッピング体験の場にもなった。

そしてこの取り組みは、バークシャーのビジネス帝国の広さを示すだけでなく、株主と投資先との間に具体的なつながりを生み出した。バークシャー・ハサウェイの一部を所有することは、価値観や関心を共有するコミュニティに属することを意味するようになったのだ。

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翻訳=江津拓哉

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