感動的なCMに目を奪われる。誰かの投稿に心が揺さぶられる。ある商品に込められたストーリーに思わず引き込まれる。それが「意図して設計された体験」だと知っていても、わたしたちは本気で心を動かされてしまうのです。いったい、なぜなのでしょう?
アート、広告、映画など「人の心を揺さぶる体験」を、心理学と神経科学を用いて分析してきた石津智大さんの著書『泣ける消費 人はモノではなく「感情」を買っている』(サンマーク出版)から、一部引用・再編集してご紹介します。
心は「安全な場所」でこそ動く
感情が動くことは、わたしたちにとって価値のある体験です。
けれど同時に、それはとても繊細で、扱いの難しいことでもあります。
なぜなら、感情が大きく動く体験には、ある種の「危険」も伴うからです。
心を開いたぶんだけ傷つく。信じるからこそ裏切られる。
感情の振れ幅が大きいほど、そこには痛みが生まれやすくなるのです。
あるいは、悲しみや喪失など、現実の危機に直面したとき。
わたしたちは「生き延びる」ことに集中しなければならず、悲しみに浸っている余裕などありません。自分の心を守るために、感情を抑え込んだり、無意識のうちに遠ざけたりする。
他人のつらさに対しても、それは同じです。
特に現代のように、毎日のように悲しいニュースや不幸な出来事に触れていると、わたしたちの心は共感しすぎて疲弊しないよう、防御モードに入ってしまいます。
これは「共感疲労」と呼ばれる現象です。
一方で、誰かが設計した「体験の場」の中では、話は変わります。
それが映画や小説であれ、広告であれ、SNSに投稿されたエピソードであれ、「これは現実ではなく、伝えるために作られたものだ」とあらかじめわかっているからこそ、わたしたちは「感情を全開にして体験できる」のです。
18世紀の哲学者フリードリヒ・フォン・シラーは、このような体験の場を「人工の不幸」と呼びました。
彼は『悲劇論』という論文の中で、「なぜ人は『ロミオとジュリエット』のような不幸な物語を、わざわざ楽しみに行くのか?」という問いを立てています。
シラーはこう述べました。
「パテーティッシュ(憐みを伴うような深い悲しみ)なものは、人工の不幸である。人工の不幸は、完全に防備を固めた状態のわたしたちにやってくる。人工の不幸は単に想像されたものにすぎない。」
シラーは、悲劇とは「突然の不幸に対処するための訓練の場」であると考えました。作られた体験の中で死や別れに触れることで、現実でやってくるかもしれない同種の出来事に備える。強い感情を予行演習のように味わえる安全な場所。それが「設計された感情体験」の本質なのです。



