日本M&Aセンター創業者が後世に伝える「真の花」

社寺建築に精通した専門会社に依頼し、銘木として名高い吉野檜を用いてつくられた能楽堂。舞台奥に掲げられた鏡板には、絵師が3カ月をかけ、松の葉の一本一本に至るまで丹念に仕上げた松が描写されている。

取材時、自邸のテーブルには、手書きのメモが加えられた書類が重なっていた。分林の半生を描いた『仕組み経営で勝つ!』(財界研究所)の感想文だ。

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「弊社に入社する人はみな提出することになっています。これは新卒65人の分。全部読むのはなかなか骨が折れますがね。今朝は彼ら向けに講演もしてきました。M&Aの担当者は、売り手と買い手、両者の成長を考える経営戦略コンサルタントなのだと」

分林は、第一線を退いた今も全国各地で講演を行い、創業時からつながる公認会計士ら数百人を引き連れての海外視察も続けている。

能楽堂の正面に据える松は全 国をまわって探し求めた。「樹齢300年を超え、こんな低く構えるものは非常に珍しい」と惚れた名木。
能楽堂の正面に据える松は全国をまわって探し求めた。「樹齢300年を超え、こんな低く構えるものは非常に珍しい」と惚れた名木。

「人生なんて一瞬」

全体像を描き、人を巻き込む。その才覚は、学生時代から随所に現れていた。高校2年で山岳部の部長となり、冬になると自ら観光バスやスキー道具のレンタルを手配して、大規模なスキーツアーを企画。「スマホも何もないあの時代に、よくバス会社やスキー用品店と直接交渉したなと思いますよ」と当時を懐かしむ。

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大学の学園祭で50ページにおよぶパンフレットをつくった際には、広告営業の陣頭指揮を取った。京都市内をエリア分けし、2人1組のチームで営業成績を競うような戦略を打ち立て、例年の2~3倍の広告を獲得したという。

1964年の東京オリンピックを機に「世界を見てみたい」と思い立ち、相棒に声をかけてアメリカでの能楽公演ツアーを企画。趣意書を作成し、大学総長や人間国宝の能楽師、京都市長などの賛同を得て、2人分の軍資金100万円(現在の1000万円相当)を集めた。公演先は、当時本屋に1冊だけあったという留学の本を頼りにした。

「ドラマ、つまり演劇学部がある大学に絞って60校にレターを送った。35校ほどから返事があったので、打率が良かったですね」

船で2週間かけて太平洋をわたり、全米30大学で公演。帰りの船の甲板で、何万光年という時間軸で輝く流れ星を見て「人生なんて一瞬」と悟ったという。それ以来、「思いついたことは、すべて実行する。それは今も変わらない私の原点」と分林。起業もそのひとつだった。

世阿弥の思想を体現し、後世に継承する

ビジネスが軌道にのると、一時は距離をおいていた能へも次第に目が向くようになった。07年、理事長を務めていた経営者クラブで「能楽部」を発足。約20人のメンバーと共に稽古をしたり、佐渡島で世阿弥ゆかりの地を巡ったり。「みなさんも最初は苦労しますが、ハマったら奥深く、面白い。来年にもミュンヘンやケルンなど、海外でも能楽公演を企画している」と、知的な文化継承を続けている。

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文=国府田 淳 写真=若原瑞昌

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