「山内家は任天堂の創業家ですが、私の代でその賞味期限がきれると思っているんです。私たちは任天堂の株主ではあるものの経営陣ではありません。私はともかく、私の次の世代は創業家の家系ではありますが、いつまでそれにすがっているのかという見方もあるでしょう。そう考えると、任天堂にかわる新たなアイデンティティをつくらなければいけない」。だから山内はYFOを立ち上げた。そしてテーマを“山内家の生存戦略”とした。異能集積拠点づくりも投資も、同じ未来構想につながっているという。
少し時を遡ろう。13年9月、任天堂を世界的企業に押し上げた3代目社長の山内溥が亡くなった。当時、20歳だった山内は、自分が知らぬ間に養子縁組されており、溥の子として莫大な遺産を受け継ぐことになった。子どものころから「任天堂の子」「山内家の人間」と言われるのが嫌だった彼は、何も聞かされずに養子になったことで、その境遇に困惑し、悩み、途方に暮れたという。ところが、である。27歳のとき博報堂を辞めて米国に留学する際、学力試験とともに自己PRのエッセイを書かなければならなかった。他人を蹴落とさなければ入学できないと思った山内は自分を売り込むために、「自分は任天堂の創業家の人間だ」ということを書いた。「あれほど嫌がっていたにもかかわらず、自らを示す術がそれ以外にないのかとショックを受けました」。一方で、このことで山内家に向き合うことになり、遺産を託された責任を考え始めた。山内が行きついた結論は「この遺産は私のものではなく山内家のもの」。そして託されたからには次世代のために発展させていかなければならないという思いになったと振り返る。
山内は遺された資産を使い、「有形資産」と「無形資産」を生み出すことに決めた。金銭的な価値に変えられる有形資産については、プロフェッショナルチームをつくり、投資などを通じて次世代につなぐとともに、無形資産を増やす活動の原資に。無形資産については、任天堂に変わる新たなアイデンティティをつくることを目的にした。その出発点として、任天堂から引き継ぐべきDNAやイズムを知るため、経営者としての山内溥について、一緒に働いたことのある従業員に聞きに行ったり、会社の歴史をつぶさに調べたりしたという。そして、新たなアイデンティティを構築するもとになる土壌をつくることにした。そのひとつが冒頭の創破プロジェクトである。
京都に誕生するか「知の生態系」
菊浜には任天堂の旧社屋があり、22年に改修されて「丸福樓」というスモールラグジュアリーのホテルになっている。そのホテルを中心としたエリアで創破プロジェクトは進められる。異能異才の集積だけでなく、石川・能登の漆器を後世に残していく伝統工芸の伝承プロジェクトや、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学など、世界から人材が集まるグレーター・ボストンの教育機関から約20名のグローバルリーダーの候補生を京都に招いて、日本の文化や思想を4~5日間体験してもらうプロジェク「Yamauchi Japan Initiative(YJI)」を行う。YJIでは、感じたこと、得たことを彼ら、彼女らの母国に伝えるには、どうすればよいのかをレポートにしてもらう。その裏にある狙いについて山内はこう話す。「SDGsやESGのようなグローバルアジェンダを、日本の価値観や哲学にもとづいたかたちでつくる必要があると思っています。世界中から学びに来ている優秀な学生に日本文化の神髄を発信してもらうことで、今後の日本をどう発信するかにヒントが見つかるのではないかと」


