サイエンス

2025.06.28 18:00

なぜ『ジョーズ』に人はひどく恐怖するのか? 名画の巧みな心理学的アプローチを専門家が解説

『ジョーズ』の監督スティーブン・スピルバーグ。同作の撮影現場にて(Universal/Getty Images)

『ジョーズ』の監督スティーブン・スピルバーグ。同作の撮影現場にて(Universal/Getty Images)

映画『ジョーズ』が公開されてから半世紀が過ぎた。1975年6月20日に公開されたこの映画は、実際の画面にはほとんど登場しないサメと、2つの音符で構成される印象的なテーマ曲という2つの要素によって恐怖をあおり、私たちの海を見る目を一変させた。

『ジョーズ』は、単なる流血シーンやサスペンスにとどまらない、心理学の深い知見に裏打ちされた作品だ。さらに興味深いのは、この作品が意識的、無意識的な反応を引き起こし、それが社会にさざ波のように広がっていった点だろう。こうした余波の一部は、実に50年を経た今になっても、目に見える形で残っている。

心理学者である筆者は、文化や、私たちの脳裏に恐怖が伝播する過程を克明に捉えたケーススタディとして、『ジョーズ』を何度も見返してきた。映画的・心理学的なランドマークとしてのこの作品の地位は疑いようもないし、その影響力は今後も永続する可能性が高い。

以下では、『ジョーズ』がどうやって、自然や脅威、そして未知の存在に対して我々がどう考えるかを条件づけ、増幅し、一部のケースでは心的な回路を書き直していったのか、その過程を解説していこう。

恐怖の条件づけと増幅

『ジョーズ』の心理的効果のうち最も永続的なものの一つが、広大で深い海を恐れる「海洋恐怖症(thalassophobia:タラソフォビア)」に与えた影響だ。

さらに明白な影響としては、科学者たちはサメ恐怖症(Galeophobia:ガレオフォビア)が広がった最大の理由の一つが『ジョーズ』にあると考えている。

言うまでもなくどちらの恐怖症も、『ジョーズ』が公開された1975年のはるか以前から存在していた。だが『ジョーズ』は、私たちの集合意識に、こうした対象への恐怖の感情を強烈に刻みつけた(その強烈さは、他のサメ映画がまず再現できないほどのものだった)。

こうした恐怖の感情が刻まれるメカニズムを説明する一つが、「古典的条件づけ」だ。20世紀はじめのロシアの心理学者イワン・パブロフによって提唱されたこの心理的プロセスは、本来は無関係の刺激を、特定の感情と結びつけるように学習する脳の仕組みを解説するものだ。

『ジョーズ』の監督を務めたスティーブン・スピルバーグは、作品を通じてこの効果をフル活用している。2つの音符で構成されるテーマ曲は、危険の前触れとなった。終盤になると、たとえ脅威がなさそうな場面であっても、このテーマ曲を聴くだけで本能的な恐怖の反応が引き起こされることさえあった。

この気味の悪い2つの音符は、『ジョーズ』が登場する前には無意味な音にすぎなかった。だが、サメの攻撃と繰り返し結びつけられることで、この音楽は「条件刺激」へと変貌した。この2つの音は、脅威が存在すると考える理由がない場面でも、私たちの恐怖心に火をつけるようになったのだ。

このようにスピルバーグ監督は、そもそもはまったく中立的だった音を、タイミングと繰り返しというシンプルな手段によって、非常に強い感情を引き起こす刺激へと変えたのだ。

公開からすでに50年が経ったとはいえ、この2つの音符はいまだに観客の神経にしっかりと焼き付いている。この音を聞くと、たとえ陸地にいても、サメの背びれが近くをうろうろしているような気がするはずだ。

さらに、認知心理学の視点から見ると、『ジョーズ』は、「利用可能性ヒューリスティック」を活用した好例でもある。

『Journal of Experimental Psychology: Applied』誌に掲載されたある論文の説明によると、これは、特定の事例が起きる可能性を推定する際に脳が頼りがちな、心理的ショートカットを指す言葉だ。

わかりやすく言い換えるなら、ある事例が記憶に焼き付いている場合、それがどれだけ非現実的で、ありそうもないことだったとしても、自分の身に起きると思い込んでしまう、ということだ。

つまり、『ジョーズ』という映画のせいで、サメの襲撃が実際よりもかなり頻繁に起きているように感じられるようになった。スピルバーグ監督の映像表現があまりに鮮烈だったため、私たちの脳内に存在する、海に関連するすべての事象に関するイメージは、これらの映像に塗りつぶされてしまったのだ。

だが現実を見ると、サメの襲撃によって命を落とす確率は、いまだにとてつもなく低い。米国に住む人の場合、一生のうちにサメに襲われる確率は、約1150万分の1しかない。さらに、サメに殺される確率となると、2億6400万分の1と、その可能性は大幅に下がる。

それでも多くの人々、特に『ジョーズ』を子どものころに見た者にとって、この映画によって喚起された恐怖の感情は、論理的に予想できる範囲をはるかに超えて、長期間とどまっている。

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翻訳=長谷睦/ガリレオ

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