30U30

2025.06.25 12:30

【私が15歳だったころ】ヘラルボニー松田崇弥・文登、岩手から世界へ「異彩」発信の原点

松田崇弥(写真右)・松田文登(同左)ヘラルボニーCo-CEO

松田崇弥(写真右)・松田文登(同左)ヘラルボニーCo-CEO

2025年6月25日発売のForbes JAPAN8月号は「10代と問う『生きる』『働く』『学ぶ』」特集。創刊以来、初めて10代に向けた特集を企画した。背景にあるのは、10代をエンパワーメントしたいという思いと、次世代を担う10代とともに「未来社会」について問い直していくことの重要性だ。「トランプ2.0」時代へと移行した歴史的転換点でもある今、「私たちはどう生きるのか」「どのような経済社会をつくっていくのか」という問いについて、10代と新連結し、対話・議論しながら、「新しいビジョン」を立ち上げていければと考えている。

特集では、ドワンゴ顧問の川上量生、 軽井沢風越学園理事長の本城慎之介、 神山まるごと高専理事長の寺田親弘による表紙座談会をはじめ、世界を変える30歳未満30人に注目した「30 UNDER 30」特集との連動企画「15歳のころ」には、ちゃんみな、Shigekix、ヘラルボニー松田崇弥、文登、Floraアンナ・クレシェンコといった過去受賞者が登場。そのほか、ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長の柳井正、前台湾デジタル発展相大臣のオードリー・タンへの10代に向けたスペシャルインタビューも掲載している。

「Forbes JAPAN 30 UNDER 30」連動企画、受賞者たちの「15歳のころ」。文化を軸に世界で活躍する新しい起業家「カルチャープレナー」でもあり、6月には世界最高峰のクリエイティブの祭典カンヌライオンズにて「Glass: The Lion for Change」ゴールドを受賞。「福祉のカルチャー化」を軸に奔走してきた双子経営者が歩んだ軌跡とは。


「あまり言っていないのですが、15歳のころは人間的に破綻していた時期で……」

銀座レンガ通りのHERALBONY LABORATORY GINZAで、少し伏し目がちに双子の弟・崇弥は語り始めた。ヘラルボニーは、障害のある作家のデザインを生かし、ネクタイや傘、バッグなどさまざまな商品をつくり、「障害」への否定的なイメージを壊している。

双子の兄弟、文登・崇弥は1991年、岩手県花巻市で生まれた。ふたりの兄・翔太さんは強いこだわりをもち、重度の知的障害を伴う自閉スペクトラム症という特性がある。10歳のころ、文登が書いた作文には「兄貴のことをバカにされ、注意しに行きました」と記されている。障害への偏見に対する憤りは当時から感じていた。

「兄貴とは、当たり前のように一緒に過ごし、僕ら双子のソフトボール大会や練習試合にも全部、ついてきてくれました。卒業文集には『特別支援学校の先生になりたい』って書きました」(崇弥)

ところが、中学校に上がって状況は一変。ここに記すのもはばかられる差別的な暴言を、地元でのさばるヤンキーの先輩たちが容赦なく、兄や双子に浴びせかけてきた。「学校」という空間が、この世のすべてだと錯覚する年齢。ときおり謎の言葉を発し飛び跳ねる、ふたりの兄・翔太さん。そんな兄を、そして自分たちを守り抜かなければ──。思いつめた双子が取った行動は、心を閉ざすことだった。

その直前まで、双子は卓球で全国大会へ勝ち進むほど輝いていた。だが15歳になってから恐怖心や反発心をくすぶらせ、次第に学校から遠ざかった。

「破綻していました。文登と不良グループに入って、髪を染め、ピアスも開けて。耳から下唇にかけてチェーンもつけていたことも。地元のヤンキーのところまで、改造チャリをこいで行くとき、冬の風でチェーンが顔に当たって、痛かった」(崇弥)

双子は地元の私立高校にそろって不合格。この先一生、理不尽なヒエラルキーの海を不器用に溺れながら生きていくのか。この状況を変えなければ。15歳のふたりは大きな決断をした。「地元を去ろう」ふたりは自宅から約200km離れた高校に進学。定員割れの学校だが、卓球部はインターハイへの連続出場も果たす強豪校だった。今ではありえないスパルタ式でたたきのめされたが、この3年間があったからこそ「人として復帰した」と語る。

「最も大きく人生を変えた3年間。地元を離れ、揺さぶられた分だけ自分のなかに『核』ができ、“異彩”である兄を肯定できるようになりました。地元を離れたからこそ、尊さも見えてきました」(文登)

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文=加賀直樹 写真=安島晋作

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