サイエンス

2025.06.14 17:00

たった数十年で消え去った米国の「どこにでもいた鳥」、ヒースヘン絶滅の教訓

現生のソウゲンライチョウの求愛(Shutterstock.com)

悲しいことにヒースヘンは、急速な個体数減少に直面した。最初の最も大きな打撃となったのは乱獲だった。1800年代の初頭までに、ヒースヘンは生息域の大半の部分ですでに消滅しつつあった。この種の狩猟にはほとんど制約がなく、1日で数十羽が捕獲されることもしばしばだった。安価で簡単に手に入るタンパク源として評判を博したことで、ヒースヘンは入植者や、その後に生まれた都市居住者向けの市場で人気の選択肢となった。

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しかも、脅威となったのは乱獲だけではなかった。ヒースヘンはもともと低木が茂り、時おり自然発生する山火事によって調整が起こるような環境に生息していた。だが、米国北東部で工業化が進むにつれて、こうした土地は農場や都市、道路によって置き換えられた。

さらに、火災を抑制しようとする取り組みによって、(これまでは自然な山火事で淘汰されていた木々が残ることによって)森林の密度が高まり、ヒースヘンには適さない環境へと変化した。さらにそうした取り組みにより、(可燃物が増えたことによって)生態系を完全に破壊するような大規模な山火事のリスクがかえって高まった。

ヒースヘンの生息域は縮小を続け、1870年代までに生息地はマサチューセッツ州の沖合にあるマーサズ・ヴィンヤード島のみになっていた。この島で、小さな孤立した個体群が、数十年にわたってなんとか命をつないでいたのだ。

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自然保護活動家が保護に乗り出し、保護区を制定したものの、その取り組みはあまりにささやか、かつ遅すぎた。(島に七面鳥が導入されたことによる)伝染病の蔓延や厳冬、山火事、近親交配、捕食者といったすべての要素が、個体数の減少をひき起こした。

最後の一撃は、静かにやってきた。1929年になると、生息していることが知られるヒースヘンはわずか1羽になっていた。それが「ブーミング・ベン」と名付けられた、最後の1羽のオスだ。

それから3年にわたり、この個体は求愛のディスプレイを続け、決して現れない、つがいの相手を乞い求めた。1932年以降、この個体も目撃されることはなくなった。

今日、ヒースヘンの事例は、安泰と思われた種でも、人間の一生ほどの期間でこの世から消え去ってしまうことがあることを知らせる、痛切な教訓となっている。

この悲しい物語にもし光明があるとするなら、それはヒースヘンを救おうとする人間たちの取り組みが、米国に生息する鳥類の絶滅を防ごうとする協調的な働きかけの初期の例だった、という点だ。

あまりに遅すぎたとはいえ、ヒースヘンで得られた教訓が基盤となり、その後の種の保護では成功例が生まれている。アメリカシロヅルやナキハクチョウ、アメリカオシドリなどは、個体数を回復させている。その意味でヒースヘンは、絶滅したものの、その後に続く種にとって、より希望が持てる道を切り開いたといえるだろう。

forbes.com 原文

翻訳=長谷睦/ガリレオ

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