━━その都内の印刷会社での仕事は?
各部門を回って、印刷における一連の工程を勉強しました。配送の手配から入り、印刷用のプレートの製作や、当時あった製版などを学びました。印刷機や厚紙を抜く機械、輪転機につくということもやりました。営業のサポートの運転もやりました。
「当たり前のこと」を当たり前にやる怒涛の改革
━━大川印刷への入社後の仕事は?
当時はバブル崩壊後で、売り上げはどんどん下がっていきました。これからはグローバルスタンダードということで、競争社会が当たり前になって、1円でも10銭でも高かったら仕事をもらえない時代になりました。そのため新規開拓など経営の改革が必要になり、そういった母ができないことを、主に私が担当しました。
たとえば、銀行とのやり取りなどは、母に社長業としてやってもらい、組織のマネジメント改善、組織改革のようなところは、私が先頭を切ってやっていました。
そのときに支えになってくれたのが2人の古参社員でした。1人は番頭のような役割をやってくれた常務取締役で、すごく顧客や社員に信頼されていたので、間に入っていろいろなことをやってくれました。
もう1人の相談役の方は94歳ぐらいで亡くなったのですが、おそらく80歳ぐらいまで相談役として働いていました。そういった方たちに支えられて、母も私も何とかやってこられたのだと思います。
━━当時の会社の課題は?
歴史のある会社は、良いことも悪いことも引き継いでしまっていることに気付きました。例えば、管理職の人が朝に遅刻してくる。部門の長が、いつ来るのか分からない状態だったのです。
そのため時間を守るところから始めました。「凡事徹底」という、平凡なことを徹底して変えていく。本当にいろいろなことを、一つひとつ潰していくのに時間はかかりました。
━━当時、大川代表に対する反発などはありましたか?
常務取締役の人と相談役以外は、みんな話を聞いてくれないような感じでした。
辛かったのは、一番の理解者でありながら、一番私の動きにブレーキをかけるのが母の存在だったということです。社内で「社長は優しいのに、なんで室長はあんなにうるさいんだ」みたいなことを言われたりしました。
私は、「社長がやっていることは『優しい』ということではなく、『甘い』ということだと思います」という議論をよくしました。
コインの表裏みたいなもので、「厳しさ」が表面に見えているけれども、ひっくり返すと実はその人の成長を考えている。そんな「優しさ」が裏側にはあるのです。
しかし私は、「甘さ」の裏側には何があるかというと、「冷淡さ」だと思っています。要するに、無関心です。その人が将来、人生で失敗しようが、恥ずかしい思いをしようが、関係ないから冷淡なのです。
━━会社の雰囲気を変えるために行った対策はありますか?
遅刻を例にすると、「なぜ時間を守れないのですか?」と聞くのではなく、「どうして遅れたのですか?」と聞いて、理由を確認するようにしました。要は、「なぜ?」を「どうしたの?」にするということです。こう聞けば、何か本当に理由があったときに、相手を注意せずにすみます。
あと、会社に戻ったばかりのころは、クレームが非常に多くて苦労しました。お客さんからモノが届かないという連絡があったとき、工場長に聞くと「今から刷るから、午後から持っていくと言っとけ」と言うような状況でした。その人は私と喧嘩して辞めていきましたけど、そういったことは日常茶飯事でした。
そこで納品確認を徹底させて、さらに「クレームのトップ即時報告」というのを義務付けました。当時はクレームをもらったら担当者が隠すので、それを改善しました。


